お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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04/15
禅問答と実生活
澤谷 鑛

 ある禅のお坊さんから、こんな話を聞きました。

 あるとき沢庵禅師(たくあんぜんじ)と柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)が、禅と剣の極意について話し合っていました。
 折柄、はげしく雨が降ってきました。
「この篠つくような雨にも、あなたの剣の極意をもって、少しも濡れないで庭を歩くことができるかどうか?」
 沢庵禅師は、柳生但馬守にむかっていいました。
「できますとも」
 但馬守は、袴(はかま)の股立(ももだ)ちを高くからげ、たすきをかけ、剣を抜いて雨の中に出ました。
 降りしきる雨の中、刀を振り回し、雨を跳ね飛ばし、切り払いながら庭をひと回りしました。ところが、さすがに少しも濡れていません。
「いかがでござるか? 剣の極意はこの通り、降りしきる雨も切り払うことが出来ます」
 座敷に帰ってきた但馬守は、自慢そうに言いました。
 沢庵禅師は、但馬守を上から下まで眺め、袂(たもと)の裾(すそ)に一滴の雨の雫(しずく)がかかっているのをみつけました。
「ここが濡れておりますぞ」
 沢庵禅師は、つづけて言いました。
「では、雨に濡れないでこの庭に出てみますかな」
 雨はいよいよ降りしきります。沢庵禅師は外に出ました。大きな庭石の上で坐禅をしました。しばらく坐っていましたが、やがて座敷に帰ってきました。全身が雨で濡れています。着物からは雫がポタポタと落ちています。
「どうじゃ、少しも濡れていまいがな」
 沢庵禅師は言いました。

 詩人の浅野 晃 先生が雨の日に出かけられるというので、車に乗られるときに私の傘を広げて先生が濡れないように掲げました。冗談めかした表情で、
「澤谷さん、僕は濡れないよ」
 と言われました。学生は「君」づけですが、院生は「さん」づけなのです。
 私はハッとして、
「スーツや手や顔が濡れます」
 と言いますと、
「僕のスーツがね。僕の手がね。僕の顔がね。でも僕の持ち物であるスーツや手や顔が濡れるのであって僕が濡れるわけではない。顔や手だって“僕の”がついている限り、僕じゃない。僕の所有物にすぎない。じゃ僕はどこにいるのか、ということですね」
 と言われました。

 さて、禅問答に話を戻します。
 禅問答では、濡れていながら濡れていないと言うのは、それでよいとしても、実生活では成り立ちません。雨の中を濡れないで歩けと言われれば、実際、現実に濡れないで歩かなければ、生活に生きた禅になりません。話してくれたお坊さんは、
「禅の生悟りではいけない」
 といいました。
 すると質問した人がいました。
「では、この雨の降りしきる庭を濡れないで歩くためには、和尚さんならどうしますか?」
「雨が降ったら傘をさす」
「……」
「但し、傘をさすといったのは、心が剣にとらわれたり、坐禅にとらわれたりせず、ありとあらゆるものの中から一番適当と思うものを選んだのであって、決して傘ばかりにとらわれて言ったのではない。自分が自分でつくった条件に縛られず、自由自在の境地で生きるということが大切じゃ」
 と言いました。

 そう言えば、松下幸之助氏は、「雨が降ったら傘をさす経営」ということを言ったことがあります。特別な趣向をこらすわけではなく、平常心是道ということなのかも知れません。


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コメント

今を生きる
おはようございます。

自分自身がつくった条件にとらわれず、自由自在に生きる。

おっしゃるとおり、ですね。

自分自身で勝手に生きていくうえでの条件を自分自身に課している。

心は、もっともっと自由自在なはずだと思います。

今 此処を生きる。

精進していきたいと思います。

ありがとうございます。

日頃の感謝を込めて
もも [URL] 2014/04/15(火) 07:08 [編集]

人生はおもしろい
澤谷先生 おはようございます

人の思考は、無意識に固定観念の枠の中に自分や相手や物事を入れたがるようになっているのかな? という気がします。とらわれている心をぽんっと飛び越えたところに、感性や直観を素直に感じられる純粋な心がある気がします。
禅問答や座禅をして悟ったとしても、何かにとらわれてしまうのが人間だから、実生活の中では執着心をなくそうとするのではなく、常に執着心を超えて本質を観なければならないと思います。生活の中のすべてに悟りがあるということなのでしょうか。
「自分が自分でつくった条件に縛られず、自由自在の境地で生きる」には、本道を歩み精進し続け、感性を研ぎ澄まし、直観力を自在に働かせる必要があるのかなと思います。

「禅問答と実生活」というとても興味深い題材に触れ、あらためて人生は一生修行なんだな…一生修行できるからこそ人生はおもしろいんだなと思いました。

澤谷先生と浅野 晃 先生とのシーンは、何度お聴きしても、何度拝読しても、いつも新鮮な感動があります。今朝はキュンとせつないような気持ちになりました。若き日の澤谷先生の戸惑い(?)などのみずみずしい心を感じ、かけがえのない時空間の連続を誰もが生きているんだなと思いました。
人と人のふれあいをたいせつに、本質を見失わずに生きることができたら、人生はいつもみずみずしくて、あたたかいしあわせに満たされているのだろうと思いました。

すばらしいご文章を拝読できて、とてもしあわせです。ありがとうございます。

ありがとうございました。
NAO [URL] 2014/04/15(火) 07:55 [編集]

雨が降ったら傘をさす

澤谷先生、おはようございます。

【雨が降ったら傘をさす】ということば、今の私の状況や心境にとても響きました。

雨が降ったら傘をさすというのをわたしは、傘ばかりにとらわれて考えていました。

でも、和尚さんがおっしゃった【自分が自分でつくった条件に縛られず、自由自在の境地で生きるということが大切じゃ。】ということばに、わたしは自分自身の条件に縛られていないだろうか?

ありとあらゆるものの中から一番適当と思うものを選んだ結果が傘であるとはまだ言えないなと思いました。

ありがとうございます・°☆。
わたさと [URL] 2014/04/15(火) 09:00 [編集]

如意自在・自由自在
ももさん。

「如意自在」「自由自在」の心が持てれば、この今という時空間の人生、生活が「如意自在」「自由自在」になるのでしょう。
ももさんの言われる通りですね。


澤谷 鑛 [URL] 2014/04/15(火) 11:02 [編集]

執着心を超えて本質を観る
NAOさん。

「実生活の中では執着心をなくそうとするのではなく、常に執着心を超えて本質を観なければならない」
と書かれていますが、“執着心をなくそう”というのは、みずからに執着心を認めていることになりますし、みずからに執着心を認めながら無くそうとするのは矛盾といえば矛盾です。しかし、みずからに執着心を認めるみずからをみているみずからがあるならば、執着という不完全をみているみずからは、不完全をわかるために完全を内在しているのだと言えます。それがNAOさんの言う「執着心を超えて本質を観る」ということなのですね。
凄味のある世界に入ってこられましたね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/04/15(火) 11:14 [編集]

難しいけれども…
今、あっそうか! と思ったのですが
真理や正論を言っているんだけれども、そのときのその人の心が逃げる方向の生き方をしているときには、その正論はその人にとっては正しくないということになるのでしょう。
最近、ネット上の発信を見ていて何人かに対して、そう気づきました。

他人のことなら観えることでも、自分のこととなると、とかく見極めるのが難しい。心を澄ませて、現実をしっかりと見据え、今すべきことに集中することが大事だなと思いました。

「特別な趣向をこらすわけではなく、平常心是道」を目指したいと思います。

ありがとうございました
NAO [URL] 2014/04/15(火) 11:19 [編集]

人生の秘訣
わたさとさん。

「雨が降ったら傘をさす」という「傘」にもとらわれないという如意自在・自由自在の中に人生の秘訣があるのでしょう。
それは、ほんもののみずからとの出会いというものも溶かし込まされているように思います。
澤谷 鑛 [URL] 2014/04/15(火) 11:21 [編集]

使いこなす
NAOさん。

「平常心是道」というのは、「心を澄ませて、現実をしっかり見据え」ることですが、唯識で言う眼・耳・鼻・舌・身という五識(五官)を磨き、研ぎ澄ますことでしょう。すると六識(意識)が五識と共に働いて感覚を明瞭にし、言葉を明快に使い分けます。
実は、その次の七識(末那識)、深層に働く自我執着心ですが、これを超えないと八識(阿頼耶識)である一切を生み出す可能力を有した根本の心を使いこなせません。誰が使いこなすのか? 九識或いは十識なのです。
いずれ、養成講座の集合講座で詳しくお話する予定です。
澤谷 鑛 [URL] 2014/04/15(火) 11:41 [編集]

自然と
なるほど……なるほど~………………あっ、そうか! 「特別な趣向をこらすわけではなく、平常心是道」となろうとしても、なれるわけではなくて、九識十識で心を自由自在に使いこなせるようになったら、自然とそうなっていくものなんだと思いました。

主観的道具である心をあつかうのは、完成されたものが完成されたままに拡大向上を遂げている主体者であるほんものの自分なのですね。

養成講座で本格的に学ぶことができて、うれしいです。心を深化させて人生に展開していきたいです。

ありがとうございました。
NAO [URL] 2014/04/15(火) 13:15 [編集]

正鵠を得ています
NAOさん。

将に正鵠を得ています。
NAOさんのこれからが益々楽しみになってきました。
澤谷 鑛 [URL] 2014/04/15(火) 13:26 [編集]

本物の自分、(どう表現していいかわかりませんが、いつも本物の自分でいられるのか、出会う時があるのか・・・?)を認識?することと、自分が自分でつくった条件に縛られず、自由自在の境地で生きるということが大切なんだということが、よくわかりました。(言葉の上でですが)

外から見たら、同じ行動、同じ結果であっても、逆に、違う行動、違う結果であっても、その人がどういう想いで行動しているか、そのプロセスが大事なのだと思いました。

<特別な趣向をこらすわけではなく、平常心是道>

当たり前のことを、当たり前に、当たり前でないくらい徹底して行うことが、やはり大事なんだなあと思いました。

当たり前に気づくことと、徹底してやるとはどういうことなのか、徹底してやったことがないので、よくわからないのですが、もしそれができたとしたら、その時にはじめて、自由自在の境地で生きることがわかってくるのかもしれないなあと、今、思いました。

それを体験したいです。もしそれができたとしたら、人生最高!人生満喫!できるのかな?(人生、わからないことだらけ!)

ありがとうございました。
エンジェル [URL] 2014/04/15(火) 16:45 [編集]

希望
エンジェルさん。

「人生わからないことだらけ!」
と言われていますが、わからないことだらけがわかっているというのは、失望ではなく、希望を感じます。わからないことがわかる自分は、わからなくないからわからないということがわかる基準を持っていると考えられるからです(笑)。
澤谷 鑛 [URL] 2014/04/15(火) 17:55 [編集]

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