お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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04/29
懺悔について
澤谷 鑛

「鏡の法則」という「心の法則」がありますが、超唯心論で鏡に映るのは現実で、それはみずからの心が映っている、というものです。ですから、現実を変えようとしても鏡を変えたり、壊したりしても、映るものは変わらず、現実を変えるためには心を変える以外にないというものです。
 この法則からは、現実に起こる一切がみずからの心の展開ですから、自分の責任ということになります。それこそ、郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、みんな私が悪いのよ(古いですね)、ということになるのでしょうか?
 心は主観的な道具であり、肉体は客観的な道具である、という論があります。あくまでも道具ですから、道具は使用するためによく手入れをしておかなければなりませんが、道具は使うものであり、使う主体、すなわち主人公があなたであるということになります。主人公であるあなたが使い、使うために手入れするのもあなたなのです。
 だから、現実は心の展開であって、主人公のあなたそのものが展開したのではありません。主人公である存在そのものと道具である心と体とを分けて考える必要があるのでしょう。

 心という道具で展開させた現実に罪悪感を感じる場合があり、罪の自分で自分の過ちをとがめ責めることに呵まれることがあります。なぜ罪の自責の念が起こるのでしょうか?
 それは、自責の念ですから心の想いなのです。主人公のあなたがとがめているのではなく、心の作用として起こってきているのです。
 主人公であるあなたが現実を展開させたのでなく、あなたの道具である心が現実を展開させたのだから、主人公であるあなたは無罪であればこそ、あなたの道具である心に罪の感じが起こるのですね。主人公であるあなたが罪ならば、ベースに罪があり、その罪が心で創り出した罪をみると、罪が罪をみるのですから罪と思わず、このままで当たり前ということになると思います。

 私たちの手に墨がつくと、手が汚れたから手を洗おう、とします。手を洗うと墨が落ちてきれいになります。手は元々きれいで墨がついて汚れただけで、汚れは墨だから手に墨がついても手は汚れていない、汚れは墨なのです。だから、手そのものは汚れていないから洗う必要はない、という理論も成り立ちます。よく考えると、手に墨がついて洗いたいと考えるのは、本来清浄であるからこそ清浄に帰りたいと思うからです。本来汚れているのなら洗いたいとも思わないでしょう。墨は墨であり墨を洗おうとはしません。手を洗い、墨が流れ落ちて手がきれいになるのは、墨は手ではなく、手についたものであり、手は墨ではないからです。
 だから、手は本来清浄であるからこそ墨がつけば洗いたくなります。それがデトックスの本質なのです。

 浄土真宗の『歎異抄』に「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」という、いわゆる悪人正機説がありますが、善人が往生できるのだから、悪人が往生できるのは当たり前、という説です。これは、悪人だから救われるというのではなく、悪人の方が救われるにふさわしい心になりやすい、という心の問題を扱っているのです。いわゆる善人という自覚を持つ人は、自分の善に誇っています。これだけ善を行ったから、と誇りを持っています。
 浄土真宗の話をしながら、禅宗の初祖である達磨大師の話を思い出しました。
 インドからはるばる中国にやってきた達磨は、最初に梁の武帝に会いました。武帝は達磨にこう言いました。
「私は即位以来、今日まで多くの寺院を造り、写経をし、僧侶たちを篤くもてなして来たが、これらの行いには如何なる功徳があるのであろうか?」
 と訪ねました。武帝は思い上がっていたのでしょうか? 誉めてくれるものと期待していたのでしょう。しかし、達磨の応えは実にそっけなかったのです。
「無功徳!」
 武帝の行いは立派であり、功徳のある行為なのでしょう。だが、功徳を求めての行為は、禅と言わず、この世の中では誰の心にも美しく感じられません。ここにホンモノとニセモノを明るみに出して、ニセモノに関しては懺悔するという心が起こることになります。
「懺悔せんとするならば、正しく座ってほんものを思え、衆罪は霜と露のようなもの、太陽が自然に消してくれる」
 というような言葉があったように思います。


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コメント

感謝
いいですね。

本当にいいなぁ・・・と思います。

太陽が、自然に消してくれる・・・というのが、「そうだよね。うん。うん。納得」と思います。

太陽の恵みといいますが、本当にその通りだと感じていて、、生かされている自分・・・を感じます。

感謝しかないですね。

朝日とともに、まっさらさらな1日とリセットされた新生の自分を感じるのは、まさに「太陽が、自然に消してくれる」事を身をもって体感したからなのだと思います。

大型連休は、澤谷鑛先生の新書に道案内をしてもらいながら、人生を幸せな未来のために、見つめなおそうと決めています。

本日本屋さんで購入してきますね。

素晴らしい人生の、第二ステージの幕開けです。

本当にありがとうございます。

日頃の感謝を込めて
もも [URL] 2014/04/29(火) 06:11 [編集]

大自然のリズム
ももさん。

誠実で素直で純粋なももさんのこころを感じました。
「霜や露は、太陽が自然に消してくれる」
この大自然のリズムを感じられたのですね。

今日は、書店で『この「魔法のメガネ」で、子どもの心が見えてくる』(七田厚・澤谷鑛 共著 学研パブリッシング)を購入されるのですね。独身の方々もこれからのために、是非お読みいただきたいですね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/04/29(火) 09:27 [編集]

とらわれない心で
澤谷先生 こんにちは

いつもありがとうございます。

心で善悪にとらわれず、みずみずしいいのちに感謝して、人生を満喫したいと思います。

ありがとうございました。
NAO [URL] 2014/04/29(火) 10:20 [編集]

無限の拡がり
親愛なる 澤谷鑛先生
お世話になっております。

今新宿の紀伊国屋書店にて、新書を購入しました。

オレンジ色の暖かさ溢れるブックカバーは、お二人の人間味の暖かさをそのままが伝わってきて、手にしたとたん、湯タンポのような暖かさが、心の中にひろがりました。

本のなかにおさまっている澤谷鑛先生は、私が今まで、まったく知らなかった別人のようです。

先生の無限の拡がりを感じました。

一語一句、大切に読みすすめたいと思います。

心からの感謝を込めて
もも [URL] 2014/04/29(火) 16:31 [編集]

絶対的な善
NAOさん。

相対的な善悪でなく、みずみずしいいのちという絶対的な善ともいうべき展開を人生で満喫したいというわけですね。
もも [URL] 2014/04/29(火) 16:45 [編集]

オレンジ色があたたかい
ももさん。

新刊『この「魔法のメガネ」で、子どもの心が見えてくる』(七田厚・澤谷鑛 共著 学研パブリッシング)を購入されたのですね。
ブックカバーのオレンジ色があたたかいという感想は嬉しく伝わりました。別人のようという感想も嬉しくも恥ずかしく伝わりました。
ももさんの最近のコメントは、フレッシュであると共にフレキシブルですね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/04/29(火) 16:57 [編集]

<主人公であるあなたが現実を展開させたのでなく、あなたの道具である心が現実を展開させた>

と、主人公と心を分けて、主人公とは別に心が現実を展開させるということがよくわかりませんが、

<主人公であるあなたは無罪であればこそ>の、無罪にちょっと、ほっとしたりしました。よほど「罪」の意識が強いのかもしれません。人は本来、完全であるということなんですよね。

罪を意識するがために、良い人であらねばと思い、達磨のような気持ちが、自分の中に無意識に充満していることに気づきました。

救われたい、よく思われたい気持ちから、あれもこれも、私はやったよね、だから救われて、許されて当然だよね、って言い聞かせている自分がいました。思い上がりで、傲慢なこころなんですね。恥ずかしい。

「懺悔せんとするならば、正しく座ってほんものを思え、衆罪は霜と露のようなもの、太陽が自然に消してくれる」

衆罪は霜と露のようなもの、というのにちょっと救われたような気持ちになりました。もっと、重くて、大きくて、取り返しのつかないような一生かかっても背負いきれないような(ものもあるんでしょうが)もののように感じていました。(自分の場合はそうなのかな?)

太陽が自然に消してくれる・・・結局、自分が自分を許せないで、ずっと引きずっていただけなのかなって思いました。どうなんだろう?

毎日、まっさらさらな命で生まれ変われるとしたら、そう意識できたとしたら、世界は変わっていくように思いました。

学びが理解できておらず、長々とごめんなさい。ありがとうございました。

エンジェル [URL] 2014/04/29(火) 18:48 [編集]

「求道即伝道」「伝道即求道」
エンジェルさん。

『観普賢菩薩行法経』に「懺悔(ざんげ)せんと欲せば端座(たんざ)して実相を念(おも)え、衆罪(しゅうざい)は霜露(そうろ)の如し、慧日(えにち)能(よ)く消除(しょうじょ)す」とあります。
あなたがコメントに書かれているように、求道されているのがすばらしいですね。読む人からは、あなたは伝道しているように思われるのも、すばらしいことです。
「求道即伝道」「伝道即求道」なのてですね。

澤谷 鑛 [URL] 2014/04/30(水) 07:57 [編集]

絶対的な善
澤谷先生 おはようございます

コメントのお返事ありがとうございます。

「絶対的な善」という言葉に感動しました。

絶対的な善でみたされている宇宙と一つにつながっている主人公の自分を観じながら、心と身体でしあわせを感じながら、人生を満喫していきたいです。

ありがとうございました。
NAO [URL] 2014/04/30(水) 08:08 [編集]

絶対善
NAOさん。

あなたの言わんとされたこと、心の思いを表現してみると「絶対的な善」という言葉になったのですが、「絶対善」と言い切ってみたい気もしますね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/04/30(水) 09:29 [編集]

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