お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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07/01
弥勒菩薩半跏思惟像のみているもの
澤谷 鑛

 過去の出来事と和解し、縁(えにし)ある人たちと和解し、そしてとりもなおさず自分自身と和解する。「和解」は「妥協」でないことは、誰が考えても明らかです。「和して同ぜず」ということなのでしょう。
「和」するとは、そのものに響き合うということで、分析や論理で追うものではなく、そのものと一体化することなのでしょう。将に思惟(しゆい)の世界でのことです。
「同」ずるとは、自分の立場から損得勘定による距離を感じさせるものです。そこに明確な分析や論理があればこそなのですが、それを行う人は、まわりの人たちからエゴイスティクな感覚を確実に見抜かれて、孤立無援の立場に立たされる人が多いようです。
「和して同ぜず。同じて乱をなす。」
 ということなのでしょう。

 2011年11月30日(水)の18:26着の「のぞみ」号でVENTOさんは、京都に来ました。いつものように京都の駅ビルの店で盃をかたむけました。
 2011年11月1日に出版された拙著の『折れた翼がよみがえるとき~絆のむこう~』(ジュピター出版)の話となり、とりわけ最終章の「咲くも花 散るも花 ――流れの中の不動なるもの」についての語り合いは、濃くて味わい深く楽しいものでした。
 サッカーの長谷部誠選手やなでしこジャパンの選手たちが何処をみていたのか? 全員が同じ方向を向くのは、個性が違っても目標に向かっての結束力を持てば、どんな困難も乗り越えられるのだろう。それは、全員が同じ方向を向くというよりも、同じ目標を持ち、ひとりひとりが個性と技術を磨くことなのだろう。ほんとうに強い組織は、「分裂こそ団結」ということをよく知っている組織だろう。ひとりひとりの個性と技術を認め、ひとりひとりが異なる景色をみる力を容認し、それでいて、そのひとりひとりが全体の目標に向かうということなのだろう。私たちは何処をみて過ごしているのだろうか?

 VENTOさんは、「明日、東福寺に行く」と言います。臨済宗東福寺派大本山の寺院で京都屈指の紅葉の観光名所として有名です。VENTOさんの家のお寺の本山にあたるといいます。年に一度は訪れると言います。

 私は、VENTOさんに「何処をみて過ごしているのか?」という話のつづきで廣隆寺に行くことを勧めました。「そこに弥勒菩薩半跏思惟像がありますが、その弥勒菩薩が何処をみているのか? 是非探ってほしい。そして、VENTOさんの感想を聞きたい」と話しました。
 ドイツの実存主義の哲学者であるカール・ヤスパースは、「哲学者として、人間存在の最高に完成された姿の表徴として、色々なモデルに接して来ました」が、古代ギリシャの神々の彫像、ローマ時代の多くのすぐれた彫刻……しかし、それらは、「まだ完全に超克されきっていない地上的人間的なもの」で「いづれも、程度の差はあっても、地上的な感情の汚れを残した人間の表現であって、本当に人間実存の奥底にまで達し得た者の姿の表徴ではない」といい、「この廣隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現され尽くしています」といい、「それは地上に於けるすべての時間的なるもの、束縛を超えて達した人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な、姿のシンボルであると思います」といっています。

 次の日、VENTOさんは、ホテルをチェックアウトすると廣隆寺に向かいました。その後、東福寺に行き、そこから携帯に「今から会いたい」とメールがありました。会うことにしました。
 VENTOさんは、ゆったりと落ち着いていましたが、強いエネルギーのようなものを感じました。感動が滲み出ているようにも思えました。
「釈迦に代わって、この世のすべての悩みや苦しみを救う慈悲の仏が弥勒菩薩なのですね。細い眼、はっきりした眉、それにつづく通った鼻すじ……すっきり整っていますね。多少微笑を含んでいるようにも感じますね」
「巧いこといいますね」
「このパンフレットに書いてあるのです。澤谷さんの分も買ってきました」
「それは、ありがとうございます」
「この時代の仏像で、これ程人間的なものはないと同時に、人間の純化がこれ程神的なものに近づいていることも類をみないのだそうです」
「確かに、いらないものは綺麗に削ぎ落とされている感じですね。もうひとつの百済からの貢献された弥勒菩薩半跏思惟像がありますね。泣き弥勒とも呼ばれていますが、比較すると同じ時代に作られたものなのですが、完成感が違いますね。日本人の感性は完成感が高いのでしょうね。四季に関係があるように思いますね」
「この弥勒菩薩半跏思惟像が、何処を、何を、みているかですね。澤谷さんがよくいう心澄ましてみずからと対面しているようにも思いますね」
「瞑想とか、座禅とか、将に思惟の世界なのでしょう。Doingやhavingの世界ではなく、beingの世界なのですね」
「詩人の浅野 晃氏が、“僕は雨に濡れない。濡れているのは僕の顔であり、僕の手であり、僕のスーツであり、僕ではない。僕の、とのという所有格がつくのは、僕の持ち物で僕本人ではない”というあの話につながるのですね」


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コメント

和解
自分自身と和解するのは、
「自分自身と響きあうこと」

「そこには、一切の詰まりがないのだろうな・・・」と思いました。

まだまだ、私には、詰まりがあって、不協和音を自分自身が奏でだし、世界から、かえってくることも、ままありますが、「自分の人生を愛する」と決めました。

一歩ずつ、すすんでいこうと思います。

いつも本当にありがとうございます。

心からの感謝を込めて
もも [URL] 2014/07/01(火) 07:16 [編集]

「私たちは何処をみて過ごしているのだろうか?」
澤谷先生 おはようございます

【それは地上に於けるすべての時間的なるもの、束縛を超えて達した人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な、姿のシンボルであると思います】

【釈迦に代わって、この世のすべての悩みや苦しみを救う慈悲の仏が弥勒菩薩なのですね】

という表現を拝読して、なぜか涙がでてきます。

完成されたほんものの自分と対面しながら、相手のbeingと響き合いながら、心と身体があるから感じることのできる感情を感じながら生きていきたい。あらゆる束縛を超越した愛を内在しながらも、たくさんの束縛のある人生の中で人間関係の中で、悲しみ、さみしさ、切なさ、やるせなさを感じることのできる体験は、とてもいとおしいことなのだ…と感じているところです。

「私たちは何処をみて過ごしているのだろうか?」
といつも自分に問いかけようと思います。

ありがとうございました
NAO [URL] 2014/07/01(火) 08:34 [編集]

変化は進化にむすびつく
ももさん。

和解―調和は、ほんものと共鳴すること。響き合うことですね。
「そこには、一切の詰まりがない」
正鵠を得ていますね。

ももさんには、「まだまだ詰まりがあって、不協和音を奏でだし」といわれていますが、そのような不完全な自分をみている自分がいるわけで、不完全がわかるのは、完全を知っているからですね。不完全が不完全をみても不完全はわからず、当たり前だからそのままにしているでしょう。不完全を克服して、などとも考えないでしょう。

一歩ずつ前進してください。その変化は進化にむすびつくはずです。
澤谷 鑛 [URL] 2014/07/01(火) 13:45 [編集]

己れ未だ渡らざる前に、一切衆生を渡さんと発願する者
NAOさん。

観世音菩薩というのは、観世音すなわち「世の音を観じ、いわば、この世の時空間いわゆる人生を観じ」て、菩薩すなわち「己れ未だ渡らざる前に、一切衆生を渡さんと発願」する者といわれています。

養成講座の理念ともいうべき、「しあわせな人生の実現をサポートする」に響き合うものがあります。
澤谷 鑛 [URL] 2014/07/01(火) 14:11 [編集]

この文章を読んでいたら、「集団的自衛権」について考えてしまいました。
田中 絵里 [URL] 2014/07/01(火) 14:16 [編集]

古くて新しい
田中絵里さん。

「集団的自衛権」ですか? おもしろい発想ですね。
声楽家の田中さんならではのことなのでしょうか? 古い菩薩像にまっさらさらのフレッシュな話題ですね。古くて新しい話題なのでしょうか?
澤谷 鑛 [URL] 2014/07/01(火) 17:14 [編集]

ほんものと出会う。自分のbeingに出会うとはどういうことなのかと考えています。まだよくわかっていないのです。

自分のbeingにであって初めて、周りの一切のもの、こと、ひとと調和し、響きあうことができていくのでしょうか。

自分のなかに、「こうあるべき」ものが無意識にでもたくさんあって、それにあわない自分は「悪」とまではいかなくても、ダメと思っているので、自分が本当は何を感じているのかを意識することを妨げているように感じています。「同じて乱をなしている」状態なんでしょうか。

自分を大切にする。まずはどんな自分であっても、受け入れてみる。
そこからなのかなと感じています。

なにも見えていない、見ていない自分に非常に不安を感じています。
でもこれは、ピンチをチャンスに変える時でもあるのですね。

自分はなにも変わっていないように思えるけれど、周りが変化しているように自分も変化しているのかもしれない。どうなんだろう?

今日、「折れた翼がよみがえるとき~絆のむこう~」を読み返したところなので、ふと、今、そう思いました。

訳の分からない事を書いて、すみません。今、こんな自分でいます。(混沌)
ありがとうございました。
エンジェル [URL] 2014/07/01(火) 18:01 [編集]

制服姿に弱いね! 最近の女性はたくましいね!
Yukio Suzuki [URL] 2014/07/02(水) 10:25 [編集]

混沌は、変化であり、それは進化につながる
エンジェルさん。

みずからのbeingと出会うというのは、主観的道具である心で観じ、客観的道具である身体によって感じて、体感・感得・体得・悟得する道を歩むことなのでしょう。体感・感得・体得・悟得の道を歩むのは、思惟と思考の双方を必要とするのかも知れません。五感を研ぎ澄ますとともに思惟の世界に深く沈潜し、如何に表現するかにかかってくるのでしょう。

エンジェルさんの混沌は、変化であり、それは進化につながるのでしょう。
澤谷 鑛 [URL] 2014/07/02(水) 10:54 [編集]

時代の息吹き
Yukio Suzukiさん。

制服姿―それも女性の、ですか。
なでしこジャパンの、分裂こそ団結、でしょうか?
そういえば、自衛隊の男性・女性のそれぞれの写真集が人気があり、売れている、ということですね。何か時代の息吹きを観じますね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/07/02(水) 13:44 [編集]

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