お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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07/29
澤谷 鑛

 ほんものの世界は、因縁によって現われる世界ではないので、決して滅びることはないと言います。仏教では、因縁を説きますが、説くだけでは救いになりません。心の法則を八識(阿頼耶識)で説くだけでなく、超越する道すなわち九識・十識に超入することによる救いを覚り悟るということが必要です。

 釈迦も「因縁の世界にいるときは、何度も生まれかわった」ということを言っています。また、「因縁を超越して生きとおしの存在」とも説法しています。
『涅槃経』には、「解脱の中に因なし、因なきをもって解脱となす」と書いてあります。因がないのなら縁を結ぶこともなければ果もありようがありません。因を超越してはじめて救いに到達します。解脱とはすなわち因縁を超越することであり、因縁にひっかかっているうちは解脱していないことになります。罪も病も死もないまっさらさらないのちの息吹きのあふれる世界がほんとうの救いの世界と言います。

 病気ということを考えてみると、業の現われだと言えます。病気は業が現われて、その業が打破できないでいるのです。業を破壊し、因縁を超越し、業に支配されない自由な世界こそ救いです。

「業」とは何なのか? 仏教では「三業」といい、「口業(くごう)=口から発する言葉」「意業(いごう)=心で思う言葉」「身業(しんごう)=表情や態度や行為という言葉」の三つに大別しています。
 この「業」は、この世に私たちが生まれてからのものだけでなく、前世からの業が続いて蓄積されているものだ、と仏教ではいいます。ですから「三時業(さんじごう)」という言葉もあります。業が現われる三つの時期をいいます。

 この世(現世)の業が、この世で現われる場合〈順現法受(じゅんげんほうじゅ)〉が一つ目です。
 この世の業が、次生(じしょう)という次の来世(らいせ)に現われる場合〈順次生受(じゅんじしょうじゅ)〉が二つ目です。
 三つ目は、この世の業が、次生の後の来世に現われる場合〈順後次受(じゅんごじじゅ)を言います。

「業」には、「善業」と「悪業」の二つがあり、蓄積されたものが「縁」をつないで、私たちの人生に影響を及ぼすと考えられます。
 蓄積された業を消しながら、新たな業を積んでいるのが人生だと言えます。そうであるならば、「悪業」は積まず、徹底して「善業」を積むべき、という仏教は頷けます。

「業」のもとは「言葉」であり、その意味で「言葉」は生きており、パワーがあるのです。良い言葉を使い、善業を積んで、すばらしい人生としたいものです。

 さて、植屋浩幸さん(養成講座6期生)が以前に書かれた文章に、

第二章は3回読み直しました。(『いのちの教育の物語』七田厚・澤谷鑛 共著/南方新社)
自分がやったことが良くも悪くも自分に返ってくるのが「因果」とすれば、「親の因果が子に報い」は成り立たないというか、あり得ない話です。
この時、頭に浮かんだのが「家系のデトックス」という言葉です。
個人の「因」ではなく「家系」という単位での「因」があるのでしょうか?

 と書かれています。

確かに「親の因果が子に報い」は成り立たない、ということになります。「鏡の法則」=「心の法則」は本人が蒔いた種を刈るのです。子孫が刈ることはありません。
 では、「家系のデトックス」という場合、先祖の業のデトックスというのは、その先祖の生まれかわりが自分であり、本人が蒔いた種を刈っている、という場合はあるでしょうが、それ以外はありません。
「家系のデトックス」という場合、【個人の「因」ではなく「家系」という単位での「因」があるのでしょうか?】ということになります。「因・縁・結・果の法則」や「鏡の法則」、それに「心の法則」からも、因はみずからの心にあり、「親の因果が子に報い」ということはありえません。
 ただ「家系のデトックス」という場合、池川 明先生(産婦人科医・医学博士)が言われますが、「子どもは親を選んで生まれてくる」ということが関係してきます。
 こんなことを拙著『しあわせな人生を実現させる4つの法則』(インフォトップ出版)に書きました。

「…(前略)…『想念の法則』というものがあります。心というものは、自分と相手で共鳴するものなのです」
「『想念の法則』ですか。あの、共鳴ってどういうことですか?」
「共鳴というと想像しづらいかもしれませんね。共感と言えば分かりますか? “類は友を呼ぶ”なんていう言葉があるように、世の中は似たもの同士が集まるものです。ダメな男性にばかり引っ掛かってしまう女性がいたとします。その人の風評を聞いてみると、その人自身の評価がダメだったりします。逆に、いきいきと人生を成功させている人の周りには、成功者が多いという話をよく聞きませんか?」
「確かに、よくよく考えるとそうかもしれませんね」
「こんな話もありますね。遭難して、まさに死に直面している人が、家族を切に思い死んでいく。この思いは、その人の死と同時刻に家族全員に夢という姿であらわれる。これも、共鳴の一つですね。
 私もこんな経験があります。ある秋の日の夜でした。私は、早起きなので、夜はいつも10時頃には就寝しています。しかし、いつもはすぐに眠りにつくのに、その日は珍しく寝つきが悪かったのです。ふと時計を見ると、時間は“22:21”を示していました。それからも眠れず、寝返りを何度も打ちました。すると、携帯に一通のメールが届いたのです。私は、そのメールの内容に驚きました」
「メールにはなんて?」
「タイトルには“謹告”とあり、私の師匠がご逝去されたとありました。また、本文に師匠がお亡くなりになった時刻が書かれていたのです。それが、私がちょうど時計を見た時刻“22:21”だったのです。師匠の死は悲しいものでした。しかし、流す涙があたたかくなっていくのを感じました。師匠の思いが伝わってきたのです」
「そんなことが本当にあるんですね」
「不思議な体験でしたが、夢や空想ではなく事実ですからね。このように、自分の心と相手の心は共鳴を起こします。また、これらは共通の思いを持つ者同士で起こるのですね」
「共通の思いを持つ者同士ですか?」
「えぇ、そうです。では、そこの部分について、もう少し分かりやすく説明しましょうか」
 澤谷さんは、美味しそうに珈琲を一口含んで飲むと、気負うこともなく自然体で話を続けた。

 音叉による共鳴の実験

「私が小学校の高学年だった頃の話をしましょう。昔、理科の授業で“音叉(おんさ)”という器具を使った実験がありました」
「音叉? どんなものなんですか?」
「音叉は、U字型の鋼鉄製の棒に柄をつけた形をしています」
「アルファベットの“Y”みたいな形ってことですか?」
「そうですね」
「何に使うものなんです?」
「これは、楽器のチューニングに使われていたものです。便利なものだったので、瞬く間に広がったものなのですよ。1711年にイギリス人ジョン・ショアが発明したものです。共鳴箱と呼ばれる箱をつけて、特定の周波数の音を発生させる器具として物理の世界でも使われていました。また、それらの他にも、腕時計のムーブメントに使用されていたこともあります。おっと、そうそう、理科の実験の話でしたね」
「たくさんの引き出しが頭の中にあるんですね」
 僕の言葉に笑いながら澤谷さんは続けた。
「小学校のとき、理科の実験でこの音叉を使った実験があったのです。まず、共鳴箱をつけた音叉を、教室の四隅と中央の実験台の五箇所に配置するのですね。そして、先生が六個目の音叉を持ち、教壇の位置につきます。
 ここからが面白いのです。先生が、鉄製の棒で音叉を叩くと、教壇を正面にして、左後ろにあった音叉が叩いてもいないのに鳴り出すのです。音を一度とめて、今度は左前の音叉を叩くと、中央に置いてあった音叉が鳴りはじめました。さらに、右前の音叉を叩くと、右後ろにあった音叉が鳴るのです。
 実は、二つずつ三種類の音叉があったのです。これら、同じ周波数を持つもの同士で鳴り響きます。これが共鳴というものですね。
 共鳴を起こす周波数が音叉から出るように、心にも同じことが言えるのではないでしょうか……。『想念の法則』それは起こり得る現実です」


 このことと「子どもは親を選んで生まれてくる」ということを考え合わせると、「親の因果が子に報い」というありえないことが現実のように浮遊してくる、ということです。


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コメント

自覚
澤谷先生 おはようございます

誰もが、この世に親を選んで生まれてきて、子は親を選んで生まれてきてくれて、ともに人生を生きていく中で、様々な体験をして、たくさんのことを想って、辛いことを乗り越えたりしながら、業を解消しているのでしょう。
そうだとしたら、誰もが解脱に近づいていっているということなのでしょう。

もし、誰もが解脱に向かって進化向上し続けようとしているのだとしたら、やっぱり、【心の法則を八識(阿頼耶識)で説くだけでなく、超越する道すなわち九識・十識に超入することによる救いを覚り悟るということが必要】だと思います。

わたしのまっさらさらないのちが、まっさらさらないのちの息吹きをあふれ出させようとしているなんてことを識らずに生きてきましたが、人生を振り返ってみると、実はあのときにかんじていたのは、まっさらさらないのちからのもの、だったように思うことがあります。
だから、【九識・十識に超入することによる救いを覚り悟る】ためには、悟りのことを学ばなければ、なかなか自覚は生まれないと思ったのです。

業を解消している途中で、まっさらさらないのちが、まっさらさらないのちの息吹きをあふれ出す喜びを自覚することができたら、業の解消が加速していくのではないかと思えました。

解脱なんて、わたしにとっては関係ないような、とてつもなく遠い遠い次元の話しだろうと思っていましたが、一度の人生でこれほどまでに沢山の体験をして学んで進化していくことができるのだと知った今、きっといつかは本当に叶うのだろうとも思えてきました。

ともに人生を生きてくれいる人たちに、尊い学びができることに、感謝しております。
いつもありがとうございます。

ありがとうございました。
NAO [URL] 2014/07/29(火) 08:09 [編集]

「想念の法則」、共鳴でいうと、学年やクラスの色とか特徴とか、そういったものがあったなあというのを思い出しました。当の本人たちはわからないのですが、先生たちがおっしゃっていたように思います。

私はつい最近、体験型のセミナーに参加してきたのですが、今回のメンバーは、熱さはトップ2だが、意欲については、最初から全力をださず、45%程度で通用するかなと様子をみていると言われました。何度いわれても改善されず、「いつになったら本気をだすのか!」と先生が怒り出す場面もありました。

私はきっと、今まで本気になったことがないので、本気とはどういう状態をいうのか、今が45%なのかも自覚がないまま参加していて、まさしく私の生き方、人生そのもので、たまたま?いや、必然的にそういうメンバーが集まったということなんですね。

生き方や意識が変わると、付き合う人や、出逢う人が変わってくると言われるのは、そういうことなんですね。

子どもは親を選んで生まれてくる。親の自分としては、わが子に感謝です。子どもの自分としては自覚はなく、でもきっと、親をしあわせにしたいと思って選んできた、のかな?
親のいいところを重点的に共鳴して選んできたんだと、想いたいです。
親のいいところをいっぱい見つけようと思います。

私は今まで、本当に悪業が深いんだなあと思って生きてきました。でも最近は、なんて私は運がいいんだろうと、つくづく思います。これも、単なる思い込みかもしれませんが、神様?に感謝して、良い言葉を使い、善業を積んで、これからの人生をすばらしい人生にしたいと思っています。楽しみです。澤谷先生、これからもどうか、よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。
エンジェル [URL] 2014/07/29(火) 15:13 [編集]

今 此処
いつも ありがとうございます。

「今 此処に、焦点をあてながら、明るく、善業を積んでいこう・・・」と改めて、思いました。

日頃の感謝を込めて
もも [URL] 2014/07/29(火) 23:00 [編集]

善業と悪業の解消
NAOさん。

業の解消という場合、業は、善業と悪業と二つがあるわけですが、おそらく、ですが、悪業は解消されるでしょうが、善業は解消されることはないのでしょう。beingに溶け込み、いわゆる善業は徳を積むということになるのでしょう。それを善業の解消というのなら、そうなりますが、徳積みで解消するというのは、解消ではなく徳積みです。しかし、悪業は残らず、浄化、デトックスすることになるのでしょう。善業の解消(あるとしたら)も悪業の解消も、この時空間での人が生きる人生で起こることなのでしょう。
澤谷 鑛 [URL] 2014/07/31(木) 14:00 [編集]

一即多・多即一
エンジェルさん。

体験型のセミナーというものが、どんなものだか知りませんが、受講されたのですね。
【今回のメンバーは、熱さはトップ2だが、意欲については、最初から全力をださず、45%程度で通用するかなと様子をみていると言われました。何度いわれても改善されず、「いつになったら本気をだすのか!」と先生が怒り出す場面もありました】
というのがおもしろかったですね。セミナーというのは、同じメンバーで開催しても、前回と今回では、違います。それぞれが螺旋階段を昇っており、全体のテーマをさだめていても、参加者ひとりひとりは、それぞれの螺旋階段を昇っているからです。
指導者は、そこで「一即多・多即一」がわからなければなりません。それは「一即多」の「一」がわかり、「多」がわかり、「一即多」がわかり、「多即一」の「多」がわかり、「一」がわかり、「多即一」がわかるということなのでしょう。
「いつになったら本気をだすのか!」というのは、本気を出すことだけがも求められているのでしょうか。参加していないのでわかりませんが。

澤谷 鑛 [URL] 2014/07/31(木) 14:16 [編集]

人生
ももさん。

「今 此処に、焦点をあてながら、明るく、善業を積んでいこう……」
いいですね。将にそれが人生なのですね。
神が生きるのでも、仏が生きるのでもない、人が生きるのが人生なのですね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/07/31(木) 14:20 [編集]

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