お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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08/26
めぐる季節の中で
澤谷 鑛

 9月7日(日)、JR宇治駅前の「ゆめりあ うじ」を会場に、「しあわせな人生の実現をサポートする人材養成講座」7期生の第二回集合講座「講演力」の研修をやらせていただく。前日の9月6日(土)には、「澤谷 鑛 ヒューマンライフ基礎講座」 in 宇治 を同じ会場で開催する。
 もう養成講座生も7期生で、1年1ヶ月をかける養成講座も7年目に入った。来年3月には、8期生の講座が発進する。この秋には、その8期生の募集も始まる。

 1年に四季がめぐる日本は、春・夏・秋・冬と様々な花が、その季節に咲き誇る。フレッシュなめぐる季節は、感性を研ぎ澄まし、磨いてくれるというのだが、しかし、慣れということもあり、マンネリになることもあるようだ。マンネリだけは陥りたくない。
去年(こぞ)の花は何処にありや、などと寝とぼけたこともいいたくない。
 一瞬一瞬をみずみずしく咲き誇る生命を“今”みつめていたい。
 昨年の花は今年には咲かない。今年の花は来年には咲かないのだ。勿論、今年の花は昨年に咲くことなどありえない。
 一瞬一瞬をみずみずしく咲き誇る生命をみつめようとすると、こんな当たり前のことも鮮烈にみえてくるのだ。

 養成講座も毎年異なる動きになるのが楽しい。過去の前例やマニュアルにとらわれないフレッシュな活動が大切なのだ。
 だがそれは、定石を否定することではない。その意味でも、めぐる季節は“法則”通りやってくるが、わたしたちが生きるいのちは、一瞬一瞬みずみずしく咲き誇る季節の花のような世界なのだ。
 めぐる季節の中で、己を知るという道を歩まない者には、四季という自然を限る季節の枠組みしかみえてこないだろう。その枠は、この時空間で動かせるものでもなく、“法則”通りの現実なのだ。重要なのは、その枠組みによる刺激でいのちを活性化させる主観的道具である心をきめ細かく練ることなのだが、その中心点である人間の尊厳を失うようであれば、本末転倒ということになる。
 ここにきて、一期一会という古人(いにしえびと)の言葉が大きく存在感を鳴り響かせる。

 道元の『正法眼蔵』の「古鏡の巻」は、南獄懐譲(なんがくえじょう・677~744)と馬祖道一(ばそどういつ・709~788)の問答で話はすすむ。

 馬祖の草庵に師の南獄がやってきて問うた。
「近ごろ何をしているか?」
「坐禅をしています」
「何のために坐禅する?」
「仏になるためです」
 馬祖の答を聞くと 南獄は一片の瓦を拾って石の上で磨きはじめた。馬祖はそれを見て問うた。
「何をしておられます?」
「瓦を磨いておる」
「磨いてどうされます?」
「鏡にするのだ」
「瓦を磨いて、どうして鏡になりますか?」
「それなら、凡夫が坐禅をしてどうして仏になることが出来るのか」

 瓦はいくら磨いても鏡にならない。瓦を凡夫に置き換え、鏡を仏に置き換えると、凡夫はいくら坐禅をしても仏にならない、となる。

 馬祖が考えていたのは、「仏になるために修行する」ということだ。ところが南獄は反対を教えた。「仏だから修行が出来る」と。
南獄の考え方が禅の修行観であり、馬祖のそれは、当時の旧仏教の考え方なのだ。

 道元は、疑問を持った。すべての衆生に仏性があるのであれば、修行などしなくていいはずだ。それなのにこれまでの諸仏は修行をされた。なぜ修行する必要があったのか、と疑問を持ったのだ。
道元は十三歳で比叡山にのぼり、十五歳のときに下りた。法然は三十年、親鸞は二十年、日蓮は十二年、比叡山にいた。道元があまりにも短い間しか比叡山にいなかったのは、抱いた疑問に誰も答えてくれなかったからだ、といわれている。
 仏教で教えるとおり、人に仏性があるというのなら、磨いても磨かなくても、修行しても修行しなくても、その仏性の値打ちは変わらない。磨くという行為は本当に必要なのか?

 高校時代、友人に連れて行かれた禅寺の和尚の話に、
「心の目でみずからのほんものと出会うために坐禅という瞑想をするが、私たちは坐禅をして仏になるのではない。実は、仏が坐禅をしているのです。修行とは、ほんものを磨いてほんものを現し出すことであり、仏を磨いて仏とすることなのです。だから、修行を離れて仏性はない」
 というのがあった。

 いくたびか春が来て、夏がすぎて、秋が来ても……めぐる季節の中で、いのちの花を咲かせるのが人生のようにも思える。


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コメント

生きている
先生、おはようございます。

わたしは、ずっと、
「去年(こぞ)の花は何処にありや、などと寝とぼけたこと」
を言い続け、来年の花を案じ、再来年の花を案じて生きていたのだ! 
と気づきました!

この世界は、宇宙は、大自然は、いつも「一瞬一瞬をみずみずしく咲き誇る生命」であるというのに、大自然のリズムに逆らって、わたしの心は過去と未来を彷徨っていたのです。
だから、苦しかったのです。

わたしは、「一瞬一瞬をみずみずしく咲き誇る生命」を生きている存在なのです。

今、生きています。ありがとうございます。

ありがとうございました。
NAO [URL] 2014/08/26(火) 06:38 [編集]

しかし、最後は・・
しかし、結局行き着くところは
冷暖自知
ですよね?

要は
「自分のことは自分で考えよ」
フリフリ [URL] 2014/08/26(火) 08:50 [編集]

一瞬一瞬に変化・進化・向上し続けていく
フリフリさんのコメントを拝読して、感じたことを書きます。

これまで、
「自分のことは自分で考えよ」
と言われたら、冷たく突き放された…としか感じて来なかったと思います。

しかし、「わたしのことをわたしが考えていい、行動して行っていい」ということが、今とてつもなく、うれしくてうれしくて、人間として生まれてきたことがほんとうにしあわせなことだったのだと、あらためて、しみじみと感じています。

冷暖自知しながら、一瞬一瞬に変化・進化・向上し続けていく人生を生きることができるのが、とてもうれしいのです。

先生とのご縁に感謝しています。ありがとうございます。

ありがとうございました。
NAO [URL] 2014/08/26(火) 09:43 [編集]

仏を磨いて仏とする
仏を磨いて、仏とする。

めくるめく季節を感じ、命を注ぐべく、仏を磨いていきたいと思います。

心からの感謝を込めて
もも [URL] 2014/08/26(火) 13:56 [編集]

今を生きる
NAOさん。

その通りですね。
「去年(こぞ)の花は何処にありや、などと寝とぼけたこと」
は止めにしたいですね。
「一瞬一瞬をみずみずしく咲き誇る生命」
を生きているのですからね。
今を生きる。ですね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/08/26(火) 14:51 [編集]

求道の世界と伝道の世界
フリフリさん。

そうですね。
「冷暖自知」
ですね。

それは、思考の世界から思惟(しゆい)の世界への移行の世界であり、所謂、求道の世界といっていいでしょう。

思惟の世界でほんものに出会えたあとは、所謂、伝道の世界で、思惟の世界を志向の世界で如何に表現するか、ということになってきます。
澤谷 鑛 [URL] 2014/08/26(火) 14:58 [編集]

異端なき正統と正統なき異端
NAOさん。

異端なき正統ですね。相対的な正統ではなく、ほんものに出会った正統なのでしょう。すばらしいと思います。
正統なき異端を喜ぶ人もありますが、そんな天邪鬼にはなりたくありませんね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/08/26(火) 15:03 [編集]

仏向上
ももさん。

その通りですね。
「仏を磨いて仏とする」。
道元のいう仏向上(ぶっこうじょう)とはそういうことですね。
完成されたものが完成されたままに拡大・向上を遂げることです。
それは、進化であり、進化は深化であり、それは真価を発揮することになるのでしょう。
めぐる季節の中で、人生を前進する中で感じるのでしょう。
澤谷 鑛 [URL] 2014/08/26(火) 15:11 [編集]

<修行とは、ほんものを磨いてほんものを現し出すことであり、仏を 磨いて仏とすることなのです。だから、修行を離れて仏性はない>

この意味が、ようやく、すこしわかってきました。学ぶことの必要性?と大切さ。


<一瞬一瞬をみずみずしく咲き誇る生命を“今”みつめていたい。>

一瞬一瞬、完全である私たちが、今まさに、それぞれの螺旋階段をのぼっているということなんですよね。

現実の世界でいえば、問題のようにみえていることだって、すべてデトックスしながら、まっさらさらの命を展開させていると観たのならば、人のことも、自分のことも赦せて?優しい暖かな目で観ることができる、すなわち、己を知る道をあゆみ、ほんものと出会っていくことになるのかなあと思いました。

どの地点でも私たちは完成されていて、今、一生懸命にこころを澄まして、ほんものにであうために螺旋階段をのぼっていることを意識していこうと思いました。なんか生き生きしてくる自分がいて、これが、みずみずしいってことなのかなって、わくわくしています。

しずかでおだやかで、満たされている世界でもあるのだなって感じています。ありがとうございました。




エンジェル [URL] 2014/08/26(火) 15:28 [編集]

生かされて生きる世界
エンジェルさん。

「修行とは、ほんものを磨いてほんものを現し出すことであり、仏を 磨いて仏とすることなのです。だから、修行を離れて仏性はない」
ということがわかったのですね。おそらく、思惟によるアプローチでわかったのですから、“ようやく”とか“すこし”という表現になっているのでしょう。

「一瞬一瞬、完全である私たちが、今まさに、それぞれの螺旋階段をのぼっているということ」
という表現もすばらしいですね。

「満たされている世界」は、「しずかで」「おだやかで」生かされて生きる世界なのでしょう。
澤谷 鑛 [URL] 2014/08/26(火) 17:25 [編集]

フリフリさん。

先のコメントで下から二行目の「志向の世界」は、「思考の世界」の間違いでした。訂正いたします。
澤谷 鑛 [URL] 2014/08/26(火) 17:30 [編集]

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