お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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弥勒菩薩半跏思惟像のみているもの
澤谷 鑛

 過去の出来事と和解し、縁(えにし)ある人たちと和解し、そしてとりもなおさず自分自身と和解する。「和解」は「妥協」でないことは、誰が考えても明らかです。「和して同ぜず」ということなのでしょう。
「和」するとは、そのものに響き合うということで、分析や論理で追うものではなく、そのものと一体化することなのでしょう。将に思惟(しゆい)の世界でのことです。
「同」ずるとは、自分の立場から損得勘定による距離を感じさせるものです。そこに明確な分析や論理があればこそなのですが、それを行う人は、まわりの人たちからエゴイスティクな感覚を確実に見抜かれて、孤立無援の立場に立たされる人が多いようです。
「和して同ぜず。同じて乱をなす。」
 ということなのでしょう。

 2011年11月30日(水)の18:26着の「のぞみ」号でVENTOさんは、京都に来ました。いつものように京都の駅ビルの店で盃をかたむけました。
 2011年11月1日に出版された拙著の『折れた翼がよみがえるとき~絆のむこう~』(ジュピター出版)の話となり、とりわけ最終章の「咲くも花 散るも花 ――流れの中の不動なるもの」についての語り合いは、濃くて味わい深く楽しいものでした。
 サッカーの長谷部誠選手やなでしこジャパンの選手たちが何処をみていたのか? 全員が同じ方向を向くのは、個性が違っても目標に向かっての結束力を持てば、どんな困難も乗り越えられるのだろう。それは、全員が同じ方向を向くというよりも、同じ目標を持ち、ひとりひとりが個性と技術を磨くことなのだろう。ほんとうに強い組織は、「分裂こそ団結」ということをよく知っている組織だろう。ひとりひとりの個性と技術を認め、ひとりひとりが異なる景色をみる力を容認し、それでいて、そのひとりひとりが全体の目標に向かうということなのだろう。私たちは何処をみて過ごしているのだろうか?

 VENTOさんは、「明日、東福寺に行く」と言います。臨済宗東福寺派大本山の寺院で京都屈指の紅葉の観光名所として有名です。VENTOさんの家のお寺の本山にあたるといいます。年に一度は訪れると言います。

 私は、VENTOさんに「何処をみて過ごしているのか?」という話のつづきで廣隆寺に行くことを勧めました。
「そこに弥勒菩薩半跏思惟像がありますが、その弥勒菩薩が何処をみているのか? 是非探ってほしい。そして、VENTOさんの感想を聞きたい」
と話しました。
 ドイツの実存主義の哲学者であるカール・ヤスパースは、「哲学者として、人間存在の最高に完成された姿の表徴として、色々なモデルに接して来ました」が、古代ギリシャの神々の彫像、ローマ時代の多くのすぐれた彫刻……しかし、それらは、「まだ完全に超克されきっていない地上的人間的なもの」で「いづれも、程度の差はあっても、地上的な感情の汚れを残した人間の表現であって、本当に人間実存の奥底にまで達し得た者の姿の表徴ではない」といい、「この廣隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現され尽くしています」といい、「それは地上に於けるすべての時間的なるもの、束縛を超えて達した人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な、姿のシンボルであると思います」といっています。

 次の日、VENTOさんは、ホテルをチェックアウトすると廣隆寺に向かいました。その後、東福寺に行き、そこから携帯に「今から会いたい」とメールがありました。会うことにしました。
 VENTOさんは、ゆったりと落ち着いていましたが、強いエネルギーのようなものを感じました。感動が滲み出ているようにも思えました。
「釈迦に代わって、この世のすべての悩みや苦しみを救う慈悲の仏が弥勒菩薩なのですね。細い眼、はっきりした眉、それにつづく通った鼻すじ……すっきり整っていますね。多少微笑を含んでいるようにも感じますね」
「巧いこといいますね」
「このパンフレットに書いてあるのです。澤谷さんの分も買ってきました」
「それは、ありがとうございます」
「この時代の仏像で、これ程人間的なものはないと同時に、人間の純化がこれ程神的なものに近づいていることも類をみないのだそうです」
「確かに、いらないものは綺麗に削ぎ落とされている感じですね。もうひとつの百済からの貢献された弥勒菩薩半跏思惟像がありますね。泣き弥勒とも呼ばれていますが、比較すると同じ時代に作られたものなのですが、完成感が違いますね。日本人の感性は完成感が高いのでしょうね。四季に関係があるように思いますね」
「この弥勒菩薩半跏思惟像が、何処を、何を、みているかですね。澤谷さんがよくいう心澄ましてみずからと対面しているようにも思いますね」
「瞑想とか、座禅とか、将に思惟の世界なのでしょう。Doingやhavingの世界ではなく、beingの世界なのですね」
「詩人の浅野 晃氏が、“僕は雨に濡れない。濡れているのは僕の顔であり、僕の手であり、僕のスーツであり、僕ではない。僕の、とのという所有格がつくのは、僕の持ち物で僕本人ではない”というあの話につながるのですね」


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コメント

仏向上は一瞬一瞬に今此処に在り、永遠に在る
先生、おはようございます。

人間であるわたしたちは、仏向上を内在している。
仏向上を観じながら、人生という相対的世界に自己を表現してゆく。

何処を、何を、みながら、何処を、何を、みて生きてゆくのか……
迷ったお陰で、だんだんと、みえてきました。

先生、ありがとうございます。
NAO [URL] 2014/11/18(火) 07:18 [編集]

何を、でなく、如何に
NAOさん。

人間の存在とであうときは、その存在は何なのか? が重要になりますが、この時空間に人生であらわす場合、何を、でなく、如何に、ということが重要です。何を表現するのではなく、如何に表現するか? ということですね。

だんだんとみえてきたのですね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/11/18(火) 10:39 [編集]

なでしこジャパンの澤選手がメンバーみんなが同じであっては勝てない。それぞれの役割があるから。とテレビでお話されてたことを思い出しました。勝つために、いかにボールをメンバーにつないでゴールするか、そのためにどう自分が動くのかが大事だとおっしゃていたように思います。

弥勒菩薩半跏思惟像・・・人間の純化。視力の純化。感性の純化。 行動の純化。思考の純化?

余計なものを削ぎ落としたら、いったいなにが現れるのか?なにが観えるのか?なにを感じるのか?どう行動するのか?なにを考えるのか??

余計なものに惑わされずに、本質を見る。そのために削ぎ落としていく。

その過程が苦しかったり、辛かったり、楽しかったり、有頂天になったり、悲しんだり、感動したり、いろいろあるんだな、きっと。

弥勒菩薩半跏思惟像は、救われるべき尊いものを人の中に観ているということでしょうか。

それに自らが気づいていくということなのかな。

考える、学んでいくということは、きっと楽しいんだと思いました。

今日の学びの結論?(私のただの連想ゲームでしたが)はここに落ち着きました。こんなんですみません。ありがとうございました。
エンジェル [URL] 2014/11/18(火) 17:24 [編集]

和する
「和する」とは、そのものに響きあうことなのですね。

まさに、恕の心があってこそ、恕の心のなせる技なのですね。

私の使命は、「人の心を通して愛と和を伝え、循環しながら、お互い成長しつつ、なごみと安らぎを残す存在です」

恕の心をいっそう深め、和する存在になろうと思います。

心からの感謝を込めて


もも [URL] 2014/11/18(火) 20:11 [編集]

エンジェルさん。

「勝つ」という全体性のもとに、それぞれの役割を個性的にこなすということなのですね。唯識でいうと七識の末那識の自己執着心を超えて、八識の阿頼耶識、一切を生み出す可能力を有した根本の心を働かすことなのでしょう。
澤谷 鑛 [URL] 2014/11/20(木) 14:13 [編集]

ももさん。

そのものに響き合う「和する」ですか。なるほど。だから、「恕」なのですね。

ももさんの使命は、
「人の心を通して愛と和を伝え、循環しながら、お互い成長しつつ、なごみと安らぎを残す存在です」
と言われます。
「恕の心をいっそう深め、和する存在になろうと思います」
という決意もすばらしいですね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/11/20(木) 14:18 [編集]

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