お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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12/30
人間の心がわかる動物の話
澤谷 鑛

 この「人間の心がわかる動物の話」をする前に、よく私がするのが「魔法使いの話」です。西洋のおとぎ話で三島由紀夫が何処かで書いていたように思います。

 私たちの人生に不都合な問題が起こるのは、魔法使いがいるからです。だから、しあわせな人生を実現するためには、魔法使いを抹殺すればいい、というわけです。ところが流石に魔法使いです。人間の常識とは違うところで生きています。抹消すればしあわせな人生が実現するのですから、弓矢で魔法使いを殺せ、というわけで矢を放つのですが、魔法使いの手前で威力がなくなって矢が地に落ちたり、左や右に逸れたりして、魔法使いに当たりません。

 どうしたら魔法使いを抹殺出来るのか? 考えているうちに、魔法使いの傍に魔法使いの作った林檎の木が立っているのに気づきました。その果実は毒林檎なのです。その毒林檎を狙って弓矢を放つと、美事に毒林檎に当たり、その果実が地に落ちました。

 ふと魔法使いを見ると、消えていたという話です。

 魔法使いを抹殺するには、魔法使いの傍の毒林檎を狙え、というわけです。

 今、この問題を解決しなければ、と問題(魔法使い)を握って(狙って)も、問題は消えません。魔法使いの作った毒林檎を狙い落とすことによって、魔法使いが自然と消えるのです。

 これは、二つの視点を教えてくれています。

 一つは、この問題と問題を相手にすると、問題が問題だから、問題に翻弄されるということです。だから別の位相を狙うことにより問題から離れて考えるという観点です。
 もう一つの視点は、根本的な問題は魔法使いなのだが、その魔法使いが展開させた状況に対して対処するということです。これは、心理学でいう追体験、仏教でいう業の流転を知ることで問題を解決するという観点です。

 日本にも似たような話があります。これは禅のお坊さんに聞いた話です。

 木を切るきこりが町で材木を売るために、木を倒そうと汗をかきかき斧をふるっていました。そこに人間の心のわかる動物がきこりに近づいて言いました。
「材木を売ってお金を儲けるの気持ちだな」
 きこりはムカッとしました。
「おっ、むかついたな」
 きこりは“このやろう、殺してやろうか”と思いました。
「殺してやろうと思ったな」
“どうしてやろうか”
「人間の心のわかる動物に、何をしようとしても考えていることが読めるから、先にこちらがあらゆることで対処出来る。だから私は人間の思い通りにはならない」
 きこりは“こんな動物にかまっている閑はない。材木を売ってお金にしなければ……”と無視して仕事を続けました。
「おっ、あきらめたな」
 人間の心のわかる動物は、きこりの心を読んでいいました。
 次の瞬間、きこりの斧の刃が飛んできて、人間の心のわかる動物にあたり、死んでしまいました。

 これは、斧の刃をとめる楔が緩んでいて、そんなことも意識しないきこりには、斧の刃が飛ぶとも思わなかった。そのきこりの心を読んでいた動物にも、当然、斧の刃が飛んでくるとは考えられなかったのです。

 この話は、魔法使いの話の表面を剥いでもうひとつ奥を見つめているようです。その中核は、この現実世界は私たちの心の展開でどうにでも変わってきますが、この現実世界を展開させる心を越えた世界を示唆しています。それは、自我意識(顕在意識・潜在意識にかかわらず)を越えた「無我」とか「無私」の世界を暗示しています。

 では「無我」とか「無私」というのは、どのように理解したらいいのでしょうか? 

 昭和の叡智といわれた小林秀雄に「無私の精神」というのがありました。
 無私とは私をなくすことではなく、無私という自在にはたらく心を得ることなのだ、というようなことが書いてあったと思います。自我という心を越えた無我とか無私という心の世界なのでしょうか?
 
 思考という西洋の得意とするものに対して、思惟(しゆい)という東洋の得意とするものの違いが浮かびました。


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コメント

 澤谷先生の教えの原点とも言うべき、問題解決、思考展開の基本と思います。

 自分自身、諸処の問題に落とし込まれてしまったときに、この考えに立ち返り何度も這い上がるきっかけをもらってきました。

 無意識の意図とでも言いましょうか、本当に望むことを自然な想いのもとで静かに持ち続けることで、いつしか施される、導かれている、というものかと理解しています。

 とは言え、実現されることを期待して、無意識の振りをしている現実との違いを埋めることが最も難しいと痛感する日々です。
Autumn Island [URL] 2014/12/30(火) 07:20 [編集]

人間の心のわかる動物が死んだのは、きこりにちょっかいを出し、きこりの心をもてあそんだ酬いだと思いました。

人間の心のわかる動物が、人間のように優しさだとか愛だとか、わかっていたらもっと結果は違っていたのではないでしょうか。

このお坊さんのお話は、きこりが自分で自分の本体を殺してしまったということを、話されているのかなと思いました。
秋田イヌ [URL] 2014/12/30(火) 10:39 [編集]

Autumn Islandさん。

お久しぶりです。

「無意識の意図」ですか。なるほど。大自然のリズムに近い言葉ですね。「無私の精神」で大自然のリズムに出会うことにより、「無意識の意図」が自然とあらわれるのでしょう。

ほんものと出会うことで、心が澄み、道元のいうように「仏向上」がわかる「仏向上心」を得るのでしょう。

「無意識の意図」を振りをするのは、真逆の現実に出くわすのでしょう。



澤谷 鑛 [URL] 2014/12/30(火) 17:32 [編集]

秋田イヌさん。

「無私とは私をなくすことではなく、無私という自在にはたらく心を得ること」ですね。

「たま」「しい」の話からすると、「しい」の話なのですね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/12/30(火) 17:38 [編集]

課題
先生、おはようございます。

自我に執着する心を超えた心の声をしっかり聴き、丁寧に生きて五感を研ぎ澄まし、「無私という自在にはたらく心」をかんじることが大事なのだなと思います。
生涯の課題にしたいと思います。

ひとりが心のデトックスをし、両親や家族との絆をよい絆にむすびなおすことができ、ご先祖様に感謝でき、執着やとらわれなく周囲の方々との縁の絆をたいせつに生きられるようになったとき、「一人出家すれば、九族天に生まる」ということが現実となるのでしょうか。

昨日から拝読していまして、このことが思い浮かびました。

ありがとうございます。
天沼 直子 [URL] 2014/12/31(水) 07:00 [編集]

無私という自在にはたらく心
天沼 直子さん。

「無私という自在にはたらく心」を得るということが、大事なのですね。それを感得し、体得することなのですね。悟得することも大変興味のあるところです。

ひとりの「心のデトックス」が両親や家族、先祖や子孫に反映し、
「一人出家すれば、九族天に生まる」
という現実を引き寄せます。いわゆる「家系のデトックス」ですね。
澤谷 鑛 [URL] 2014/12/31(水) 09:50 [編集]

自意識から解放されて
拝読して、「無作為」という言葉が浮かびました。

何かに熱中して無我夢中になっているときは何をたくらまなくても
次かが次へとひらめいて、どんどん作業がはかどったり
普段なら落ちてしまうような思考のパターンにとらわれずに
するすると真実をつかめたりするものです。

たくらまないところからのみ生まれる力、というものが
間違いなくある。


なぜ「無作為」という言葉が浮かんだのかが知りたくて
改めて意味を調べてみたところ
「作為がないこと。偶然にまかせること」とありました。

更に「作為」という言葉を調べてみました。
「人が自分の意志で作り出すこと」
「事実であるかのように故意に手を加えること。つくりごと」
「あることに見せかけようと、わざと人の手を加え手直しをすること」
「ことさらに手を加えること」と、ありました。

わたしたちは、顕在意識でも潜在意識でも
それ以外の動機では、ほとんど何もしてはないのではないかというくらい
自分が信じていることの証拠探しに明け暮れているように思います。

自分が信じていることを真実とするためには、
記憶も感じ方も、五感から得られる情報を捻じ曲げることも辞さない。
「作為」とは、まるで自意識の説明語のようだと感じます。

「自在にはたらく心」とは、
そんな作為的な自意識の檻の中にとらわれないこと。

自分が疑いもなく信じ込んでいる「事実」を疑ってみる。
そこにあるのは、ただ自分の理解、信じる思いのみであり
「真実」などないのだと、理解を変えていく。

信じることをすべて手放し、裁くこと判じることを手放し
何も握らなくなったその頼りなさの先、
何が正しいのか何が間違っているのか何もわからなくなったその先にしか
それは、はたらき始めないのかも知れません。


2014年から2015年へと移り変わろうとしている狭間の時を
この文章を考え、書いては消し消しては書き
自分の思いと、方向を確かなものにしようとして過ごせることを
とても嬉しく思います。

こんなに安らかなしあわせな思いで迎える新年は初めてです。
完全に満ち足りてもう、何の、渇望も執着もありません。
限りない自由さ、信じられないほどの軽さの内にいられることを
心から嬉しく思います。

2015年は、ますます自意識から解放されて
真実を生きる年になることを確信しております。

どうぞ、よろしくお願いいたします。
桜 美穂 [URL] 2015/01/01(木) 00:04 [編集]

「無私という自在にはたらく心」を得ることとは、目の前の問題等に囚われないということでしょうか。

自分の中では、「自在に」という方が、囚われてしまいそうです(笑)。

きこりのように、人間の心がわかる動物に振り回されるより、今すべきことに集中することが大事ということでしょうか。

先生がいつもおっしゃっているように、考えても仕方のないことは考えないということでしょうか?

とりあえず、私はそこから始めてみようかと思いました。
今年一年が楽しみです。ありがとうございました。
エンジェル [URL] 2015/01/01(木) 18:37 [編集]

自在にはたらく心を得ること
桜 美穂さん。

すばらしい生き方ですね。

小林秀雄が、こんなことを書いています。

【私の知人で、もう故人となったが、有能な実業家があった。非常に無口な人で、進んで意見を述べるというような事はほとんどない、議論を好まない、典型的な実行家であった。この無口な人に口癖が二つあった。一つは「御尤も(ごもっとも)」という言葉、一つは「御覧の通り」という言葉である。だれかが主張する意見には決して反対せず、みんな聞き終ると「御尤も」と言った。自分の事になると、弁解を決してしない、「御覧の通り」と言った。この口癖には、何んとも口では言えぬ感じがあり、また、或る言いようのない魅力があった。私は、彼の仕事の実際については、知るところが殆どなかったが、彼と一緒に仕事をしていた人達の間には、彼の口癖は無論よく知られていたらしく、彼の仲間の一人が、あの人の「御尤も」と「御覧の通り」には、手も足も出ない、と私に語った事がある。彼には、人を説得するのに、「御尤も」と「御覧の通り」の二た言あれば足りたわけになる】
【有能な実行家は、いつも自己主張より物の動きの方を尊重しているものだ。現実の新しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。物の動きに順じて自己を日に新たにするとは一種の無私である】

小林秀雄がいうように、無私とは、私を無くすことではなく、無私という自在にはたらく心を得ることなのですね。
澤谷 鑛 [URL] 2015/01/02(金) 08:11 [編集]

思惟と思考
エンジェルさん。

桜さんのコメント返しに小林秀雄の文章を載せましたので、読んでみてください。

それから、学びを深める道を求めることは、思惟(しゆい)の世界で行われることであり、そこで出会った“ほんもの”を表現し伝えるためには、思考の世界が大切なのですね。

バームクーヘンの中空に外から向うためには、思惟を、中空から外に向うのは、思考を、それぞれに使うということですね。
澤谷 鑛 [URL] 2015/01/02(金) 08:23 [編集]

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