お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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01/09
若き日の道元の疑問
澤谷 鑛

『へそ道』(入江富美子著・サンマーク出版)を拝読していると、こんなところに出会いました。

「へそ道」的にとらえれば、どんな出会いも、前世のことも含め、何かのご縁で出会わされている。出会いをとおして最善に向うための自分の「ほこり」に気づき、みたまを磨く縁ととらえることで、新たな「ほこり」を積むことがないのです。

 この「ほこり」は、「誇り」なのか? 「埃」なのか?
 少し前に、このようなところがありました。

人間はいくらキレイに生きようとしても、「心」を持っている私たちは生きている限り、知らず知らずのうちに、ほこりを積んでしまうことを知っていたのですね。だからこそ、昔の人は、いろいろな思いにとらわれず、ほこりを積まないように喜んで陽気に生きるよう心がけていました。

 というところがありますので、「ほこり」は「埃」のようです。しかし、「埃」と書かず「ほこり」と書いたのは、「誇り」も「埃」に通じるとの思いから、「ほこり」と表現したのかも知れません。

 さて、「みたまを磨く」という言葉がありますが、仏教では「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」といわれます。生きとし生けるもののすべてを衆生と言います。生きとし生けるもののすべてが仏になる性質を持っている、というものです。
 これは、無限の可能性を示唆するもので、ここでの「みたま」は道元のいう「仏向上」とイコールであり、完成されたものが完成されたままに拡大向上を遂げる存在のことといえます。

 ところが若き日の道元は、疑問を持ちました。
「本来仏になる性質(仏性)を持っているのなら、何もわざわざ発心して悟りを求め、修行する必要などないではないか?」
 本当に磨くという行為は必要なのか? 磨こうが磨くまいが仏性があるならば、何も価値は変わらない、というものです。ところが、完成されたものが完成されたままに拡大向上を遂げるのを意識化するというのは、心のはたらきです。
「玉磨かざれば光なし」なのですが、いくら仏性が蔵されていても、磨くという行為がないと輝きません。
「仏性」=「みたま」と「発心」して「悟り」を求め「修行」をする「心」とは、位相を異にします。
 道元は、「仏向上」を意識するものを「仏向上心」と表現しました。

 道元は、比叡山に13歳から15歳まで学びました。
平安時代・鎌倉時代の比叡山の天台宗は、大乗仏教の大学という位置づけだと考えるとわかりやすいようです。
 法然(1133年~1212年)は30年間比叡山で修行しました。親鸞(1173年~1262年)は20年比叡山にいました。日蓮(1222年~1282年)は12年修行しました。ところが道元(1200年~1253年)はわずか2年間しか比叡山にいませんでした。
道元より法然は67歳年上で、道元が12歳のときに亡くなっています。親鸞は27歳年上で、道元が亡くなって9年後に亡くなります。日蓮は22歳年下で道元が亡くなって29年後に亡くなります。

 道元がわずか2年で、15歳で比叡山を下りたのは、道元が抱いた疑問に誰も教え示してくれなかったから、といわれています。
「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」
 というのが天台宗の、日本の仏教の基本的な教学です。
「生きとし生けるもののすべてが仏性を内在している」
 というものです。だから、
「その身そのままで成仏できる」
 ということです。
 しかし、このことがわかるためには、ほんものとあらわれをよく理解しなければなりません。一切衆生悉有仏性はほんものの世界であり、その身そのままで成仏できるのもほんものの世界です。だが、あらわれとしてのその身そのままをほんものと誤解する場合もあります。

 道元は、その一切衆生悉有仏性という基本的な教学に疑問を持ちます。
「生きとし生けるもののすべてが仏性を内在している。生まれながらにして仏性を内在している。では何故、わざわざ悟りを求める修行をするのか。本来仏である性質(仏性)を内在しているのであれば、なにも修行などする必要はないではないか」
 若き日の道元の疑問です。

 本来の発想では、
「仏性が内在するから修行ができる」
 わけで、あるからあらわしだせるのであり、なければなんにもなりません。
 ところが道元は、
「仏性が内在するのに何故修行が必要なのか?」
 というのです。
 仏性が内在するから修行ができる、と真剣に修行をしていた比叡山の僧たちは、誰も答えられませんでした。道元は冷暖自知する以外にありません。

 15歳の道元は、比叡山を下ります。臨済禅を伝えた栄西(1141年~1215年)の開山した建仁寺で学ぶことにしました。道元が栄西に会ったとしても短い期間です。多くは栄西の弟子の明全から学びました。6年間学びます。仏教学の基本は勿論のこと、中国語も学びました。

 1223年2月22日、道元は師の明全とともに京都を出て博多に向かいました。
 3月下旬に二人は商船に乗って博多湾を出航し、4月はじめに明州慶元府(現在の淅江省寧波)に到着しました。
 道元の中国での禅の学びが始まります。


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コメント

へそ道の「たま」と「しい」のお話から、ようやく、「仏向上」と「仏向上心」のことがわかりました。これらは別物なんですね。

「仏向上=御霊」を磨くとは、「心」が「仏向上=御霊」を意識するものなので、その心、主観的道具をいかに使いこなし、レベルを高めていくのか、それが「仏向上=御霊」を磨くことであり、修行するということなのだと思いました。。

「ほんものとあらわれ」の違いがわかる心・意識が「仏向上心」。

まだ私には、「ほんものとあらわれ」の違いは明確にはわからないけれど、日々、自分の心の動き?に気づき、心を切り替える訓練、心を澄ましていくことを意識する訓練を行っていくなかで、分かるようになっていくのではないかと感じています。

わからなかったことがわかるようになる。見えていなかったものが見えるようになる。それってどういうことなのか、どういうものなのか、とても興味があるのです。

「玉磨かざれば光なし」

磨くことを通して光を見るために私たちはこの世に存在している。
そう考えるだけでも、心は変わってくるのだなあと、今、実感しています。ありがとうございました。
エンジェル [URL] 2015/01/09(金) 15:59 [編集]

エンジェルさん。

「ほんもの」と「あらわれ」というのは、ほんものは、みたまということになりますが、あらわれは、心で認めたもののあらわれということですね。あらわれは、心の展開ということになります。

では、心の展開にほんものはあらわれ、ないのか? 奇蹟的というほど奇蹟的なのでしょうが、ほんものもあらわれます。ほんもの=仏向上をあらわしだすのは、仏向上心なのですね。

と、理屈を述べるよりも、ほんものと出会うべきですね。ということは、そういう心を持つべきで、そういう心とは、ほんものを認める心です。
澤谷 鑛 [URL] 2015/01/09(金) 19:24 [編集]

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