お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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02/14
唯識に学ぶ(5)
澤谷 鑛

『唯識に学ぶ(4)』記事の続きになります≫
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 ☆常なるもの、無常なるもの☆

 仏教には、もともとひとつのジレンマがあったと言います。無我を説きながら生死輪廻を認めるならば、輪廻する主体は何かという問いかけが起こり、矛盾に出会うことになるからです。原始仏教は、業が相続すると答え、仏教以外のバラモン教に属する諸派などは、霊魂や我(が)の存在を認め、それが輪廻の主体であると認めています。釈迦は、我・自分というものはないという無我説を主張しました。しかし、生じては滅していく業の相続体があり、それがこの一生を生き、それが未来にも続いていく、と釈迦は説きました。釈迦も矛盾しているのでしょうか。ここで九識・十識を引き合いに出せば、矛盾は消滅します。

 唯識思想は、阿頼耶識(あらやしき)こそが輪廻の主体であると主張することによって、一応の結論を得ます。しかし、唯識が八識までしか扱いませんから、おのずと限界を生じます。理解力のない人は、阿頼耶識を我であると考え間違うことを恐れて、説かなかったと言うのです。

 では、どうして阿頼耶識は我ではないのか、ということを考えてみなければなりません。川の流れの例えで、答えているところがあります。

 川の流れを目で見れば、常に流れている水があるように思いますが、それは視覚による思い違いだと言います。川の流れに手を浸けてみると、水は刻々新しい水になっていきます。そこには、刹那に生滅する不連続の連続体である水があるだけだと言います。これと同じく唯識では、阿頼耶識(あらやしき)も実体として常にあり続けるのではなく、刹那に生滅する不連続の連続体としての心があるだけだと言います。

 私は、こんなことを書いたことがあります。

「ある日、宇治の塔の島を散歩しました。喜撰橋(きせんばし)をわたり、島を通って朝霧橋にさしかかりました。陽の光も蒼くすがすがしい初夏の風が頬をなでました。山々はつくりたてのおひたしのように柔らかい輝きを発していました。何度か渡った橋から見た景色が初めて見る新鮮さで迫ってきました。佇んだ橋の上から宇治川に眼を向けると、うねりはかなりの早さで流れていました。無限に続くであろう高低……。うねりは同じところに同じ形で起こるように思われました。水は上流から下流へ、次から次へと新しく流れます」
「……」
「その時とつぜん、高校時代に学んだ『方丈記』の一節が浮かびました。『ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず』。私たちの生活は、朝に起床、昼に働き、夜に睡眠と、毎日のように同じ形を起こします。しかしその形は、諸行であり、無常に変化し、流転し、破壊するわけです」
「……」
「『現代人は無常ということがわからなくなった。常なるものを見失ったからである』とは小林秀雄の名言ですが、うねりが同じところに同じ形で起こるように見える無常の世界の奥に、今日は昨日よりも進歩し、発展し、生長し、新生している『常なるもの』の世界があるのですね。無限に生長する世界……。『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』の世界……。
 常なるものの世界には、無常の世界の殻を打ち破る力、葛藤の種があるのです。無常なる世界は、常なるものの世界の進歩し、発展し、生長し、新生する影絵だともいえます」
「……」
「突然浮かんだこの考えは、不思議にあやしい思いを抱かせました。実は今も思い返すとあやしい思いがよみがえります。このあやしい思いとは何か? 不易流行……風雅の誠を責めるものは新しみを求める。永遠なるものを追求していくと、追求するその段階で新しいものを創造する、というものです。これは松尾芭蕉の俳諧を研究するための言葉です。反対に、流行不易……新しみを求めるものは風雅の誠につきあたる。新しいものを次から次へと追求していくと、追求するその段階で永遠なるものに突き当たり表現する、というものもあります」

(『折れた翼が甦るとき~絆のむこう~』澤谷 鑛 著・ジュピター出版)


 ☆阿頼耶識の種子☆

 誰もが阿頼耶識(あらやしき)を持っていますが、今生における業のあり方が善であるか悪であるかによって、来世の生存状態が決まるという原始仏教以来の考え方を、唯識思想は阿頼耶識の種子(しゅうじ)の領域で説明するようになったと言います。

 阿頼耶識の中の種子に二種類あります。①名言種子(みょうごんしゅうじ)と②業種子(ごうしゅうじ)です。まず名言種子について考えてみます。

 はじめて唯識説が提唱(『解深密経(げじんみっきょう)』にて)されて以来、阿頼耶識の中の種子とは何かと追求されてきましたが、言葉であるということが言われました。阿頼耶識は、一切を生み出す可能力を有した根本の心ですが、その種子に言葉があるというのですから、言葉によって心が左右するということです。心は現実をつくりますから、その心を左右する言葉によって現われる現実が違ってくると言えます。暗い言葉は暗い現実をつくり、明るい言葉は明るい現実をつくります。心が現実をつくるのですが、その心を左右するのが言葉なのですね。言葉が心を動かし、現実をつくると言っていいでしょう。言葉の力はもの凄いパワーを持っています。

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コメント

<心が現実をつくるのですが、その心を左右するのが言葉なのですね。言葉が心を動かし、現実をつくると言っていいでしょう。言葉の力はもの凄いパワーを持っています。>

ここのところだけ、いつも先生がおっしゃっていることなので、ハッとしました。(あとは、よくわかりません。)

いつも言われているにも関わらず、無意識な自分がいることを自覚しました。もっと、言葉を大切に、選んで、使おうと思いました。

訓練なので、きっとできるようになるのだと思います。
きっと出来てきているところもあるのだと思います。
言葉の物凄いパワーを良い方向に全開にしていきます。
力が沸いてきたように思います。・・・笑。
ありがとうございました。
エンジェル [URL] 2015/02/14(土) 20:03 [編集]

エンジェルさん。

言葉の力というのは、凄い凄味(笑)なのですね。言葉が心の向う方向性を決めてしまいますからね。すると、言葉のとおりの現実が実現するということになります。
『すべての「願い」は現実になる』のですね。
澤谷 鑛 [URL] 2015/02/15(日) 16:46 [編集]

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