お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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07/01
空の器。
                                        諏訪千春

今、ある日本の禅師についての本を読んでいます。

そしてつくづく思うのは、禅の修業の在り方が、言語造形の修業と似ているということ……

禅師のもとに、入門しようとする弟子たちは、禅による悟りの境地に強い憧れと意志を抱いて、その教えを請おうと門をくぐるも、さっそく師によって、“たたかれ、ののしられ、「邪利坊主」と叱りとばされ、「死禅め」と鉄拳で叩きのめされ、足で蹴飛ばされて、縁側から地面にころがり落とされ、ハッと目覚めるところあり、泥まみれのまま、また縁側に這いあがり、老人(師)に所見を呈するも、全然相手にされず、部屋の戸をぴしゃりと閉められ、茫然とするのです。” ・・・

ここまでする、師のこの行為の意味。
それは、弟子のこころの在り様を問うているということ。

弟子の内面を埋め尽くしている、さまざまな“思い”を、取り払って、空っぽにさせなければ、真の悟りを得ることはできないのだということを教えていると思うのです。

 まことを受け取るためには、
 自らが空っぽな器になること。

言語造形の稽古場でも、まさにそれが問われています。そこは師匠と弟子が一対一で向かい合う、真剣勝負の場。「私は、私は」という思い(エゴ)などは持ち込めないところ。そうして真剣に取り組んで空の器にならないと、まことのことばは降りてこれないのです。

なのに私はこれまで幾度となく、いろいろな“思い”をその場に持ち込んでいたことに改めて気付き、反省しました。
それはことばや態度に出す、出さないが問題なのではなく、「こころに持っている」ということ自体が問題なのですね。

逆に、その場で、言語造形のみに集中しているとき、その瞬間瞬間の、「今」を生きているときには、言いようのない生命感、生き生きとしたエネルギーに包まれるような体験も、この二年間で幾度となくありました。
それは自分が生きているということの喜び、人間らしいぞ! という実感のような感覚です。もしかしたら人は、言語造形などの一つの形をきっかけとして、「今に生きる」ということが、“常に”できるようになる可能性を持っているのかもしれません。

その状態こそが禅でいう「悟り」であり、体の健康であり、こころが平安である本来の人間の在り方なのでしょうか。

11月に二度目の公演を終え、12月に入ってまもなく、子連れでも参加できるクラシックコンサートに行く機会がありました。
コントラバスとピアノによる演奏会。
そこには、まさに「空の器」になっている演奏者がいました。
今年定年を迎えられ、今はこうして各地で小さな演奏会を行っているというその男性は、コントラバスを弾きながら、エゴなどの“思い”や小さな自分などは、ちゃんとどこかへ置いていて、いや超えていて……私にはまるで「“自分”なんてどうでもいいのさ!」と伝えているようにすら見えました。

そして、そこに降りてくる音は……
まさに精神の世界からの、豊かな贈り物でした。

乳児との参加を受け入れてくれたその方と、その会に、こころから感謝しながら、私もあのような語り手になりたい、と強く思いました。

真っ直ぐに、
空になって、
これからまた言語造形に取り組んでいこう。

たとえ精神的には“蹴飛ばされて”も、その場にどんな出来事が起こっても、ただひたすらに、空になって、この芸術に取り組んでいこう。

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