お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
07 * 2017/08 * 09
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
--/--
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
07/28
続々・空じる ~心のデトックス~
                                     澤谷 鑛

 構えをなくして人に向き合った林武に「外界に不思議な変化が起った」といいます。「そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきたのである。ありのままの実在の木として見えてきた」と言います。いのちの体験……みずみずしさの回復……日常の意識を超え、個と全体が溶け合う大自然へのフレッシュな驚きと共感に満ちた実在体験なのです。

【そのとき僕は、歩きなれた近くの野道をぼつぼつと歩いていた。すると突然、いつも見なれていた杉林の樹幹が、天地を貫く大円柱となって僕に迫ってきた。それは畏怖を誘う実在の威厳であった。形容しがたい宇宙の柱であった。僕は雷にうたれたように、ハァッと大地にひれ伏した。感動の涙が湯のようにあふれた。
 同時に地上のいっさいのものが、実在のすべてが、賛嘆と畏怖をともなって僕に語りかけてきた。きのうにかわるこの大自然の姿――それは天国のような真の美しさとともに、不思議な神魔のような生命力をみなぎらせて迫る】

 そのときから林武は、その「言語に絶する」実在体験――「狂うような歓喜の世界」を絵に描こうと決心するのです。

 林武は、その眼で、
【名画といわれている古今東西の複製の画集を眺めた。そして感ずることは、すべての名画が、僕の見たあのものを、現わしており、それ以外ではない】
 ということを覚った、と言います。

 実在体験……ほんものを覚る体験は、自我を超えた実在に対する啓かれた生き方なのでしょう。人生を根本的に肯定する態度に感じます。
 人間とは? という問いに、近代合理主義の実在とは無縁の答えをしてきたのでしょう。それは、現実と考えている現実は、実は現実ではなく、主観に歪められ、主観に枠組みされた虚構であるこことを示しています。悟るという理を解するのではなく、覚るという実を知る(出会う)ことなのでしょう。素直な誠実な眼で、ほんものに対してみずみずしい畏敬の心を回復することなのでしょう。

 小林秀雄は『美を求める心』でこのように述べています。
【人間の美しさ、立派さを感ずる事は、易しい事ではありますまい。又、知識がどんなにあっても、優しい感情を持つとは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか。神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人ではない。ただ、びくびくしているだけです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。】

 いらいらしない、優しい、素直な、誠実な心で感ずることを学ぶということは、どういうことなのでしょうか。小林秀雄のいう「無私の精神」を持つということがあります。小林秀雄はこのように書いています。

【私の知人で、もう故人となったが、有能な実業家があった。非常に無口な人で、進んで意見を述べるというような事はほとんどない、議論を好まない、典型的な実行家であった。この無口な人に口癖が二つあった。一つは「御尤も(ごもっとも)」という言葉、一つは「御覧の通り」という言葉である。だれかが主張する意見には決して反対せず、みんな聞き終ると「御尤も」と言った。自分の事になると、弁解を決してしない、「御覧の通り」と言った。この口癖には、何んとも口では言えぬ感じがあり、また、或る言いようのない魅力があった。私は、彼の仕事の実際については、知るところが殆どなかったが、彼と一緒に仕事をしていた人達の間には、彼の口癖は無論よく知られていたらしく、彼の仲間の一人が、あの人の「御尤も」と「御覧の通り」には、手も足も出ない、と私に語った事がある。彼には、人を説得するのに、「御尤も」と「御覧の通り」の二た言あれば足りたわけになる】

【有能な実行家は、いつも自己主張より物の動きの方を尊重しているものだ。現実の新しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。物の動きに順じて自己を日に新たにするとは一種の無私である】

 唯(た)だ心だけが存在する、という唯識思想は、仏教でありながら科学、哲学、宗教を備えた世界で通用する思想と言われます。不可思議と言える心を深層から観察・分析し、秘密を解き明かす唯識、と謳われます。混迷の今、迷いから悟りへ、混迷から平安へ、導くものなのだと言います。

「唯だ心だけがある」という「唯だ」ということが重要です。人生は神が生きるのでも仏が生きるのでもなく、人が生きるから人生です。人生には唯だ様々な心の働きがあるだけで、そこから成り立つ自分というものはありません。たとえ存在しても、それは仮のものであり、仮我(けが)と呼ばれるものです。この唯だあるのは何なのか、というすべての存在の構成要素は、心で認識されて初めて成立するのが唯識という思想だと言います。

 唯識とは、唯だ識、すなわち心だけしか存在しないもので、自分のまわりに展開する様々な現象は、すべて根本心である阿頼耶識(あらやしき・八識)から生じたもの、変化したものと言います。これを唯識所変(ゆいしきしょへん)と言います。
 ものはすべて心の中にあるというのが唯識思想ですが、心を離れてものは存在しない、心の外にはものはないというのを一切不離識(いっさいふりしき)・唯識無境(ゆいしきむきょう)と言います。

 仏教の歴史における唯識の思想を考えるとき、原始仏教(仏教の創始者である釈迦の生存時代、あるいは死後数十年の仏教で、釈迦自身によって説かれた教説を中心とした仏教)→小乗仏教(釈迦の説いた教説を詳細に研究解釈するあまり、衆生の救済という仏教本来の目的を忘れ、自分ひとりの解脱を目指す自利行のみに専念しがちになるという弊害が生まれた)→大乗仏教(自己の解脱より他者の救済を目的とする釈迦への復帰の運動)という流れの中に現れます。

 大乗仏教では、空を強調するあまり、ともすると虚無主義に陥ることを防ぐため、識、心だけは存在するという思想が現れたと言います。こちらの岸からあちらの岸に渡るためには、筏(いかだ)や舟が必要です。迷いの此岸(しがん)から悟りの彼岸(ひがん)に渡るための筏や舟を唯識思想の人々は心に求めたと言います。唯識は複雑で難解と言われますが、ヨーガを実践し、自己の心のありようを深層から浄化することによって、迷いから悟りに至ることを説いています。ここに心のデトックスが位置します。

 もう一度確認しておきましょう。空というのは、決して論理ではなく、空と観る空観ですから、空じる力が必要になります。

澤谷 鑛 のカウンセリングは、コチラ…
澤谷 鑛 のセミナー/講演会情報は、コチラ…
コメント

管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック
トラックバック URL

Copyright © 2017 絆の法則 ~ 澤谷 鑛 オフィシャルブログ ~.
all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。