お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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08/14
「慈悲喜捨」という言葉
                            桜 美穂(養成講座8期生)

「慈悲喜捨」という言葉について、ずっと以前、澤谷先生と吉野成人さんのジョイントセミナーで、澤谷先生がお話されたそうです。大変深く、本質的なお話だったそうです。
伺いたいと思いながら東京での開催でわたしは参加できず、残念でした。そういうわけで、この言葉の正解はわからないのですが、とても気になる言葉ですので、素人なりに考えをまとめて書いてみようと思います。

「慈悲喜捨」という言葉は、お釈迦さまが人間関係について語られたお言葉であるそうです。

単純に言葉の通りに読めば、相手を大切にし、慈しむ。相手と共に悲しみ、相手と共に喜ぶ。そして捨てる。となるように思えます。

相手の悲しみ苦しみ、喜びを、相手の立場になって感じる。そうした優しい曇りの無い心で生き始めるとき、自分の心は苦痛に満ちたエゴから解放されて癒え、相手の心も、時には病をも癒すことができると、仏教では言われます。その結果として、今生きている様々な問題のある現状も、ありのままで価値のあるものとなる。
実は問題など何一つなく、ただ、丸ごとの現状を味わい満喫して生きる心に近づいていけるのでしょう。

そして、心底相手の身になって感じ、考えることができるためには、自分はひとりで生きているのではない。生かされているのだと知ることが欠かせない。自分ひとりの満足を追うことから、その人の人生は貧しく不毛なものになってしまう。自分の周りすべてが幸せになることでこそ、本当に自分の幸せが生まれてくるのであり、それが見えてこないと、その人の人生はどうしても独りよがりなもの、寂しいものなってしまいます。

この四つの言葉は、そのように、相手を思いやる態度についての基本的なことになるのでしょう。
相手の悲しみを理解し、自分のことのように共に悲しむ。
相手の喜びを、嫉妬することも羨むこともなく、共に喜ぶ。
そのような心のありよう、相手への対し方が「慈しむ」ということになりそうです。
慈しむとは、とても美しい日本語ですね。普段の生活ではあまり使うことの無い、ふくよかな意味深い言葉です。それは「愛する」ということと似て、相手の命を深く肯定し、生かそうとする言葉であるように感じます。

「慈悲喜捨」という言葉は、一文字一文字が独立して意味を持っていると言われますが、「慈悲」という言葉もありますね。「慈悲」とは、平たく言えば「あわれんで情(なさけ)をかけること」。もう少し詳しく言うと、「慈」とは、相手を救い、癒し、楽を与えることであり、「悲」とは、「苦を抜くこと」であると言われます。
更に言うならば、「悲」とは「人生の苦に対する人間の呻き」のことであり、つまり「慈悲」とは、自分も相手の悲しみ苦しみと同じ心になって共に苦しみ呻き、何とか相手を救いたい、癒したいと思う心を表す言葉なのだそうです。
一文字一文字が独立していながら、この二文字の「慈悲」という言葉もまた、意味の上でかかってきているのでしょう。

さて、「慈」「悲」「喜」に続く「捨」とは何でしょうか。何を捨てるのでしょうか。

ある解釈では、「徳にならないものを捨てるのだ」と言いますし、また、別の解釈では「善悪の判断を下して裁く、自分の解釈を捨てるのだ」と言います。「捨」とは「恩や恨みの心を無くし、人々を平等に分け隔てなくみる心」だという人もいます。

気の合う人、好ましく思う人と、共に喜び、共に悲しみ、慈しみあい、楽しく生きたいと願わない人はいないでしょう。しかし、その三つの心の後に「捨」が来るのですね。この順番にまた、何か深いものがあるように感じます。

人は、好ましい相手と楽しく心を分かつことに喜びを感じます。しかし、その喜びにとらわれ、執着することから離れるようにと、この「捨」は、指しているように思われます。
共に喜び共に悲しんで、慈悲の心で暮らしていても、それが好ましい相手を対象に行なっていることであれば、それは、相手を大切にするという心からそうしているというよりも、自分の心に起こる喜びに執着しているからであるのかもしれません。

そして、自分の喜びに執着していては、相手の本当の姿が見えなくなる。失望したりして、「こんな人だったのか」と、愛情が一転して憎しみに変わったりする。相手を見ているのではなく、ただ相手から得られる喜びを見ているからなのでしょう。
自分が執着していると自覚できていればまだよいのですが、これがなかなか難しい。自分は100%混ざりけのない愛からそうしているのだと思いこんでしまう。その思い込みがその人の目に、心に、覆いをかけてしまうような気がします。

「慈悲喜捨」の最初の二文字が「慈悲」という独立した言葉にも読めるように、「喜」と「捨」もまた、「喜捨」という独立した言葉として意味を成して全体にかかってくると感じます。

「喜捨」とは本来は「寺社や貧しい人にお金や物をあげる」という意味の言葉です。お布施をすることと、人間関係の極意とどうつながるのか、と思いますが、「喜んで捨てる」という点では、お布施も、他人への執着を捨てることも、まったく同じ意味を持っているような気がします。

それは、「自分の本質ではないものを捨てる」という行為であり、自分の本質ではないものを捨てることによって、自由になり、本質に近づいていけるという喜びを伴うもの。だから、「喜捨」と呼ばれる。お金であっても愛情であっても、それは自分のものでありながら自分のものではない。自分のものであると思い込み、守ろうとするところから、すべての迷いが生まれてくるのでしょう。 だから手放す。そして、手放すことで初めてそれは「生きる」。そしてそれらが「生きる」ことで初めて、それをかつて持っていた自分もまた共に「生きる」のだと感じるのです。

執着しているものを捨てることは痛いことであり、悲しく苦しいことと思われますが、本当はそうではない、それは喜ぶべきことであり、歓喜すべきことであるのだと、わたしたちの固まりきった固定概念を砕くために打ち付けてくる言葉が「喜捨」であると感じます。

人の心の中にある仏性とも言うべき本質は、自分の好みや偏った解釈、好き嫌いなど、絡まりに絡まったものにこそ覆われ閉ざされてしまっている。そして、そのような迷いこそが、物事のありのままの姿を見ることを妨げて、その人のすべての苦しみの元と成っている。

そのような迷いを抜けるために「捨てる」。
なにひとつ自分のものではないのだと、執着それ自体を「捨てる」。
捨ててこそ、初めて、相手と、またお金とも、新しい関係を作れる。
いったん捨てることでこそ、何にも振り回されることのない自分の本質に出会える。
そして、自分の本質に出会ってこそ、相手の本質が見えるようになってくる。
相手に自分の姿を投影していながらそれに気付かずに、自分の影を相手にすったもんだするのではなく、本当の相手、という存在との、本当の出会いが初めて可能になる。
そういうことではないかと思うのです。

この自由さは、何物にも変えがたく素晴らしい。 そして、この自由さの中にあってこそ、人は本当に生かしあう関係を作れる。 成長し合える。

捨てなさい。
捨てなさい。
そして、気付きなさい。
気付いて幸せになりなさい。

ここでもやはり、そのように歓喜に満ちて促す人生の声が、聞こえてくるような気がするのです。

「捨てる」ことは、喜ばしいこと。歓喜に値すること。
これは、わたしのものではない。
これも、わたしのものではない。
そう、ひとつひとつ、握り締めている指をほどいて捨てる。
物への執着を捨てる。持ちながら、持たないように生きる。
物事に対する感じ方、考え方も捨てる。
人に対する評価、感情、愛着、嫌悪、といった執着も捨てる。

捨てて、本当に失ってしまうようなものならば、最初から要らないものであったのです。
自分の本質でなかったのです。
捨てるほどに見えてくるものがある。
捨てるほどに、最後まで残る、変わらないものが見えてくる。

これ以上の喜びが、あるでしょうか。
これ以上の自由が、あるでしょうか。

澤谷 鑛 のカウンセリングは、コチラ…
澤谷 鑛 のセミナー/講演会情報は、コチラ…
コメント

難しいことはいらない
桜さん、厘です。

難しいことは考えなくていいと思うのです。
ただ、相手のいのちと自分のいのちがひとつであるという感覚に至ればそれでいいのだと思います。

相手に対する心が暖かいものになればそれでいい。
そこに至る過程に。思い返してみればそういうものがすべて含まれていたなと思うのですよ。

あなたは徹底的に内観していくことで現象が変わっていくことを体験したかったのでしょう。

私は徹底的に相手を。相手といってもそれは自分ですが。相手を徹底的に自分に溶かしこんでいくことで自分の器を拡げることを体験したかったのでしょう。

苦しみが抜けて本来のいきいきとした悦びに満たされて良かったですね。

もっともっと浄化が進んでいかれたら。それは私もいえるのでしょうが。

私が最初に投げかけたことに対しても。すんなりごめんなさいがいえて。それに対して私もごめんなさいがいえて。問題はなにもないと思うのですよ。

けれど。すべては過程としてあり。その過程に長くかかることもあるのだから。

待つこと。信頼すること。そういう気持ちになれないことがあるなら。捨てるものを捨て。相手の悲しみや苦しみを理解すること。相手の変化や生長を喜ぶこと。そのもっと奥に自分のいのちも相手のいのちも一体であるという感覚を悟得するということがある気がします。

あなたに繋がるすべてのいのちが祝福され輝きの中にある今に感謝致します。ありがとうございます。


舞姫 [URL] 2015/08/14(金) 09:12 [編集]

私と母と妹と
相手の苦しみ悲しみ喜びを、相手の立場に立って感じるとき。相手にとっての自分というのは。相手の心を映す鏡でしかなくて。

たまたま。相手にとって最も受け入れがたいお姉さんという存在を投影されただけのことで。最初にそれがわかっていたなら。そのままそっとしておくことができたと思います。

ブロックが強くて。何かちょっとでも否定されることを言われると受け取れなくて。言った相手を無意識に攻撃してしまうんだなと。

こちらは。嫌いになりたくないから言っていて。ただ、そういう思いをさせたならごめんねと。そうしてくれたら。いいんだよ。私もあなたの気持ちになれなかったんだね。ごめんねと。私も怒ってごめんなさい。ただ、仲良くなりたかっただけなんだよと。

そう。それは私の気持ち。それは私の執着。

あなたというのは。自分の怒り。自分の悲しみ。自分の喜び。そういうものすべてを自分でひとつひとつ手のひらにのせて。ひとつひとつ昇華していきたいのであり。誰にも邪魔されたくないのであり。そのひとつひとつを人に共感して欲しいのであり。

そうしてくれない人は邪魔だったんだと思う。
無視したかったんだと思う。そうして。先生も無視しなさいと言ってくれたことで思うようにそれができたんだと思う。

だから私は。そうだったんだなと思って。
自分はただ余計なことしたんだなと。

あなたは。怒りを抑圧していて最初、こちらのいう内容が聴こえないという段階があったよ。どうしてかなと思って。繰り返し繰り返し繰り返し言い続けたらやっと怒ったんだよ。怒ったら当時随分、低血糖に苦しんでいたけど。怒ると低血糖が良くなって来てるなと思ってみてた。

統合されてきてるなって。

揚げ足をとる。私はなにもしてないのにって。あなたは言ってるし自分に悪いことをした覚えはないっていってるけど。こっちからは分裂してしまっている人格の統合は。怒りの統合が鍵なんだなって。

これをこうすれば。たぶんこれが外れる。。
私の見通しは。ほとんどがその通りであり。。
自分はあなたの抑圧人格を引いてしまうということはあったけど。貴女は良くなっていったんだ。

そして今思うのは。私は。そんなことする必要なかったということ。お母さんを救ってあげたいという代償行為だった訳で。

お母さんに感謝されなかったように。貴女にもひとつも感謝されることなく。娘さんには感謝するけれど私にはひとつも。。私は。娘さんの叫びが貴女に届かないことに胸を痛め。娘さんの心がこのままだと壊れてしまうよと。。私が何がどうなっているかわかったから。どうにかしてあげるよと。。

娘さんは。私自身でもありました。娘さんを救ってあげたいは私自身を救いたい。桜さんを救いたいはお母さんを救いたい。そういう私の投影だったんですね。

結果。自分は感謝されなくても。娘さんと貴女が救われ幸せでいる訳であり。本当は私は貴女にありがとうと言って欲しかったのだけれど。

それを捨てることで。自分が生きるということ。
本当にそうだと思うのですよね。

ただ。貴女にいうことがあるなら。貴女は貴女のやりたいようにすればいいのだけど。

自分の怒り、自分の悲しみ、自分の喜び。
そういうものを手のひらにのせて昇華するだけでは。越えられないものがあると思う。それは私が貴女にそういうものを映してみているだけであり。
貴女は貴女でいいのですよね。

私も私で難しいことはいらないのであり。。

今あなたが幸せであり。
今わたしが幸せであり。
良かったね。

それでいいのだと思います。

私は。あなたのお姉さんじゃない。
あとは。あなたのお姉さんに対する心が。
暖かいものになればいい。

それなくして貴女の幸せはないと私は思う。

でも。もうそれは。
貴女が貴女のタイミングで浄化していけばいい。

私は貴女との絆をほどき自らの人生を生きたらいいんだと思います。

たくさんたくさんありがとう。
私はお母さんと和解して今とても幸せです。

お父さんもお母さんもわからない
両親との間の長女のこれまでの苦しみ悲しみは。
私の妹が一番、理解してくれて。

いま私を誰よりも愛してくれる妹がいて。
私が愛するよりもっと大きな愛で私を愛してくれる妹がいてくれて。私は幸せです。

桜さんも幸せな人生を。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。


















舞姫 [URL] 2015/08/14(金) 11:30 [編集]

高みに向かって

見えないものが本質。
見えるもの一切を否定すること。


本質を真っ直ぐみる眼を養うこと。


そこに立ったときに。
数年前の私は未熟であり。


あなたの本質を真っ直ぐみることができず
ごめんなさい。


澤谷先生に対し数年前、私は。
先生だからそれができるんでしょう?
そういうこと。思いました。


そんなことはないですね。


先生に数年前、言われました。
貴女は磨いていけば、
多くの人を癒すだけでなく救っていく人になると。


そうして。他人の不完全をみる眼があるなら。
それをひっくり返せばいいとも言われて。


本質からみた不完全を。本質からみた言葉で表現すればいいのであり。その言葉を待ってるのだけど。。。ともいわれました。


そうすると。


お姉さんを愛したい貴女がいますよね??


そして。お姉さんというのは。
貴女そのものだと。私は思いますよ。。


そこの統合ができた桜さんを。
みていますよ。。


そこを突き抜けた桜さんと和解して。


お互いいろんなことあったけど。
良かったねと(*^-^*)


高みに向かって。
歩いていきましょう。
ありがとうございます。


舞姫 [URL] 2015/08/14(金) 17:08 [編集]

相手の気持ち
数年前、貴女の問題に介入しないこと。
貴女の問題は貴女が解決できると信じて
そっとしておくことができたなら。


それが貴女への愛だったのでしょう。
多くの人がそうしたように。


先生のいうように。目の前のその人はその人のままで良かったのだと認めること。


自分が要らなかったと認めること。
要らない介入をしてごめんなさい。


完全に相手の気持ちに立つなら。
自分の気持ちというのは消えていくのでしょう。


お互いの不完全がお互いを磨き高められたこと。
それはせめてもの良かったことでしょう。


さらなる完全を顕すためには。
自分の不完全を自分から先に謝ったらいい。
自分から折れていけばいい。


器を拡げるとは。
人の気持ちをわかることですね。


この体験をできて良かったと思います。
ありがとうございます。


御活躍お祈りしてます。






















舞姫 [URL] 2015/08/14(金) 19:50 [編集]

舞姫さん。

「本質からみた不完全を。本質からみた言葉で表現すればいいのであり。」
というところが、よくわからないのですが、不完全が見えるということは、完成されたものを知っているから、不完全がわかる。だから、その不完全も本質、ほんものからみれば、本質、ほんものからみた言葉で表現できるということでしょうか?
澤谷 鑛 [URL] 2015/08/16(日) 19:56 [編集]

自ずから
澤谷先生。本質からの表現も自ずからですね。
自ずから出てこないと意味がないですね。

ただ。よくはわからないけれど。
そこを見据えてますから。

あとは自分を信じるのみ。

舞姫 [URL] 2015/08/17(月) 19:42 [編集]

厘さんへ
一年間、正面から向き合った人との最後の大切な約束を守らず
あなたはまた、一体何をしているのか

このような奇麗事をコメントに綴って
この場にその記憶を持つ人々が、快く思うはずがない

あなたがストレートなら、私は直球勝負でものをいいます

六年前に
奇麗事という我を振り回し、場にふれる人々を不快にさせた
それと今していることは、さほど変わりない

あなたは自分のこと半分以上
それは百歩譲っても 愛 とはいえない


この場を離れ
然るべき所へ通い 幸せになりなさい


あとのことは、私はもうしらない

裏切りは 背徳であります


アオノカゼノミコト
アオノカゼノミコト [URL] 2015/08/17(月) 20:06 [編集]

舞姫さん。

自(おの)ずからであり、自(みずか)らではない。ということですね。そこがわかれば、おのずから表現できるのでしょう。
澤谷 鑛 [URL] 2015/08/20(木) 19:42 [編集]

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