お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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11/03
無我について
                        澤谷 鑛

 フロイトもユングも学んだという「唯識」は、仏教における「ただ心だけが存在する」という、不可思議ともいえる心の秘密を解き明かしたものです。

 仏教は、釈迦が興したもので根本教理は、「無我」です。無我について考えてみます。
無我とは、我れが無い。それは自分は存在しない。ということかと思っていました。確かに、「ただ心だけが存在する」という考え方からは、心があるだけで自分など存在するはずもありません。ということは、あくまでも「唯識」では自分がありませんが、「唯識」から離れると自分はあるという可能性が浮上してきます。
 小林秀雄は、「無私とは私をなくすことではなく、無私という自在にはたらく心をうること」というようなことを書いていました。ベースには、唯識があるのでしょう。

 あらゆる存在は心のあらわれにすぎない、という唯心論的な思想が、なぜインドの仏教史上にあらわれたのか調べてみると、空(くう)を強調するがために、虚無に陥る悪い点や不都合な点を改め正すためにヨガを実践した人たちによって、打ち立てられています。
 虚無に陥ることを防ぐために「識」=「心」だけは存在するという思想があらわれました。
 唯識思想は、ヨガを実践し、自己の心のありようを奥深くからデトックス(浄化)することによって、迷いから悟りに向うことを説いています。ヨガの体験を通して発見した末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)の深層に働く二つの心を発見しました。

 唯識思想が説く識には、八つの識があります。八識とは、眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜつしき)・身識(しんしき)・意識(いしき)・末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)の八つをいいます。
 五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)――五つの感覚。
 意識――五識とともに働き感覚をはっきりさせ、言葉を使い概念的に思考する。
 末那識――深層に働く自我執着心。表層の心が常にエゴで汚れている原因となる。
 阿頼耶識――一切を生み出す可能力を有した根本の心。
            (『やさしい唯識~心の秘密を解く~』横山紘一著・NHK出版)

 中学生の頃、友だちと夏に花火をおえて、美しい夜空を見上げていました。すると、流れ星が流れました。私は、「流れ星!」といいました。友だちは、「見なかった。流れ星、本当?」といいました。彼の弟が「見た」といい、友だちは「本当なんだ」といいました。友だちは数人いましたが、彼以外にもうひとり、流れ星を見なかった人がいました。
 出会うと、自分の意志とは関係なく、心の中に浮かびます。眼で出会っても、識=心で認めないと出会えません。ふたりの友だちは、眼では見ていて心では認めていなかったのか? もともと夜空を見ていなくて、別の景色をみていたのか? それはわかりませんが、見ようと思って「流れ星」を見るのではなく、見せられたのだと唯識ではいいます。これが眼識の視覚が関係した出来事です。
 つぎに「美しい流れ星」という思いが湧きました。その影像に「美しい」という色づけをします。その思いは澄んでいますが、「見た自分はラッキー。見なかった友達はアンラッキー」となると、その思いは煩悩になります。このように煩悩が生じるのは、その奥に「自分」にこだわる心があるからです。この「自分」を設定するのが、深層に働く自我執着心であり、末那識です。
そして、言葉で「見た自分はラッキー。見なかった友達はアンラッキー」と決めつけてしまいます。この言葉を発する心が意識です。
眼識から始まり、意識や末那識、さらに「自分はラッキー。友達はアンラッキー」という煩悩など、これらすべてを生じる根本心が阿頼耶識です。

長くなりそうなので別のときにまた書きます。
ということで、最後に小林秀雄の文章を……。

『釈迦は内省から始めたかも知れぬ、ヘラクレイトスは自然の観察から始めたかも知れぬ、いずれにしても、人間的な立場をことごとく疑って達したところには、空と呼ぼうと火と呼ぼうとかまわぬが、人間には取り付く島もない、因果律という「無我の法」が現れたに相違ない。そして、無我の法の発見は、おそらく釈迦を少しも安心などさせなかったのである。人間どもを容赦なく焼き尽くす火が見えていたのである。進んで火に焼かれるほか、これに対するどんな態度も迷いであると彼は決意したのではあるまいか。心無い火が、そのまま慈悲の火となって、人の胸に燃えないと誰に言えようか。それが彼の空観である、私にはそう思われます。』(私の人生観)

『最も人間くさくない因果律は真理であろう。しかし、真如ではない。truthであろうがrealityではない。
 釈迦は諸行無常をまた、一切諸行苦とも言っている。彼には、無常と苦は同じものなのであって、存在の理解と価値の判断は、同じ行為なのである。』(私の人生観)

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コメント

八識田中に一刀を下す……そこを基軸にザゼンをお釈迦さんは奨励されたのでしょうか。
井上暉堂 [URL] 2015/11/03(火) 14:08 [編集]

井上暉堂さん。流石に禅の老師であり、70冊を超えてご著書を出版されておられるだけありますね。これからも色々と教えて下さい。
澤谷 鑛 [URL] 2015/11/03(火) 14:11 [編集]

とんでもございません。私のほうこそ、これからもご教示をお願いします。ところで、本日、重村先生とお会いします。ヨコハマ・山下にて。
井上暉堂 [URL] 2015/11/03(火) 14:14 [編集]

井上暉堂さん。学びを深められるのですね。重村さんによろしくお伝えください。
澤谷 鑛 [URL] 2015/11/03(火) 14:15 [編集]

了解しました。
井上暉堂 [URL] 2015/11/03(火) 14:16 [編集]

八識田中に一刀を下す、について
井上暉堂さん。調べてみたら、こんな文章に出くわしました。鈴木大拙の書いたものでしょうか。

般若の知恵は元来無意識層の根底から迸出するものであるが、末那識を通じて意識に現れると、分別になる。分別になっても、なおその本性であるところの無分別性をそっちのけにしない限り、般若はその本来清浄性を失わぬのである。すなわち無分別の分別、分別の無分別ということになるのである。 分別性の意識にももとより無分別性の般若が具わっているが、いったん分別という世界に足を踏み出すとこの分別によりて新たに無分別のもとの世界に意識しなくてはならぬことになる。

意識(マノヴィジュニャーナ)は、無意識面と有意識面との両面を有するごとく、その働きに無分別性と分別性との両性を見ることができる。転回はこのごとくして可能なのである。転回の前にあっては、分別「我」の世界が心の全部であるが、転回という体験があってからは、般若の知恵が光り、分別「我」に無分別性があることが明らかにせられる。これを阿頼耶識の暗窟に一点の光明を添えると言う。いわゆる転依(てんえ)なるものすなわち是れ、或いは八識田中に一刀を下すとも言うのである。

八識(阿頼耶識)田中に一刀を下すことは、分別の無分別性を認めること、般若の知恵の働き出ること、意志の集注がその極限を突破したことである。畢竟するに、「心を一処に制すれば事として弁ぜざるはなし」で、この一処に制するということは、意志の集注、分別力の内向的飛躍、意識(マノヴィジュニャーナ)の還元的作用であるというべきである。
澤谷 鑛 [URL] 2015/11/03(火) 14:45 [編集]

井上暉堂さん。テレビ出演もあるのですね。忙しい、いやいや充実ですね。
澤谷 鑛 [URL] 2015/11/03(火) 17:46 [編集]

「ヨソで言わんとい亭」というバラエティー番組で暴露的なことで視聴率受けをとるところですが、あまり、ラディカルなリアリストすぎると叩かれますので、可もなく不可もなしという形をとろうと思案してます。
井上暉堂 [URL] 2015/11/03(火) 17:59 [編集]

井上暉堂さん。のびのびと、いきいきと、楽しく、やって下さい。
澤谷 鑛 [URL] 2015/11/03(火) 18:01 [編集]

そうですね。楽しみ三昧になれたらいいでしょう。
井上暉堂 [URL] 2015/11/04(水) 17:29 [編集]

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