お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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11/06
ただひとつのものを求めて。
                  桜 美穂(養成講座8期生)

昔から伝統的に断食を指導されているお寺での、あるお坊様のお話を聞いたことがあります。

その方は、指導を受けておられる立場の方から、断食を指導する役に当たるように言われて、最初、とんでもないと、辞退されました。

断食は、死ぬこともある。
そんな大変な役割が自分に務まるはずがない。
と思われた。

しかし、「できる力があるのにできないと言ってはならない。それは傲慢だ」と諭されて、ご決断されたのだそうです。

当時、そのお寺には、断食を希望される方々が、いつも途切れることなく訪れて来られていました。
一回の断食が終われば、次の断食までは数か月空けるのが普通です。
しかし、指導に当たられるようになったそのお坊様は、そのように休まれることなく、超人的なペースで、ご自身も次々と新しく集ってこられる方々と、ほとんど同じように断食をされた。
毎朝滝に打たれて身を清めずに指導をされることは、一日もなかったのだと聞きました。

断食は、注意点さえ守れば決して危険なことではありませんし、今は、死ぬような断食など、誰もやりません。
断食を健康法として気楽に行う現代と、当時のお寺での断食とは、かなり質が違うものだったのでしょう。

この話を聞いた時、私にはわかりませんでした。
死ぬかもしれないのに、どうして、人々はやって来るのか。

それ以上に、死ぬかもしれないとわかっていて、どうして、断食をさせるのかが、どうしてもわからなかった。
断食で何を得られようとも、それで死んでしまったら元も子もないじゃないか、と思ったのです。
健康も命も、大切に守るものであるのは当然のことですが、そこで行われていたことは、そんな常識を飛び越えてしまっていました。

そこから私は、考えさせられるようになっていきました。
死んでしまったら元も子もないはずなのに、命と引き換えてでも、得るべきものがあるのだろうか?
最初に感じたのは、お坊様や断食の道場に集われる方々は、自分の体の健康や命に無頓着であるように見えるけれども、実は、そうしたものを守って生きている普通の人たちの何倍も何十倍も、別の意味で、自分の体も心も、健康も命をも大切にされているのだ、ということ。
自分の体にも命にも執着しない行為をされながら、また同時に、ご自身の体も命も命がけで守り、生きようとされているのだ、ということでした。
一見たいへん矛盾していますが、いったいどちらが、本当に生きていると言えるのだろうか。と問うてみると、どう考えても、一般の私たちに軍配が上がることはないように思われました。
この方々は、みずからの命を守ろうとする体や心の欲を満たすために動かれません。
むしろ、それらを脇に置いて忘れること、黙らせることで、本当の命である何ものかに出会おうとされているように見えました。

では、「本当の命」とは、何なのでしょうか。
人間とは、不思議な存在です。
体があり心が、頭があります。
また、聖書には、そこに、霊があり魂があるのだと書かれています。

体のしあわせは、必ずしも心のしあわせにはなりませんし、心のしあわせは、いつも体のしあわせと一致するとは限りません。
頭(思考)を満足させることが、心や体のしあわせを損ねることがありますし、何不自由なく満たされていながら、見えないところ(霊や魂と呼ばれる部分なのでしょうか)で、わけもなく激しい飢え渇きに苦しめられる方もおられます。

ひとことで「しあわせ」と言っても、その在り方は、これほどまでに多様なのですね。
人間は複数の位相を持った存在であり、どの位相でしあわせを感じるかは、人によって全く違う。
どれが正しいとか、間違っているとか、上だとか下だとか、一概に言えるようなことでは、絶対にない。
それは、その人の人生、天命そのものであるがゆえに、誰によっても何によっても裁かれることはない。
すべての答えは、その人の中にのみ存在しているのです。

ある人は、自分の命を守ろうとしてすべてを失い、またある人は、自分の命を捨てることですべてを得る。聖書、マルコによる福音書には、そんなことが書かれています。
こんな世界があるのだとしたら、そしてそれこそが、断食の道場で求められていたことだと思うのですが、では、ここで言われる「すべて」とは、何なのでしょうか。
私も、その「本当の命」「すべて」に、出会いたいのです。
どうしても。

私が子宮筋腫を切らない理由の一つがそこにある。
さいわい、子宮筋腫で死ぬことはありませんが、それに出会うのか。それとも、肉の命に生き永らえるのか。どちらかを選べと言われたら、前者を選びたい。
たまらない思いがあるのです。
すぐそこに、見えないけれど確かに何かがある。
もう少しでつかめそうなところに。

どうして、ここまできて引き返せるでしょうか。
それさえつかめたら死んでもいい。
そして、それさえつかめたらもう、病などという不完全な状態にとどまり続けることなど、逆に、不可能になるであろうことも、自分は、深いところで知っているような気がします。

そこに、呼ばれている。
そこから、永遠の昔から響いている音の響きに呼ばれている。
このなつかしさを、どうしたらいいのか。

そこに、戻っていきたいと思うのです。

ますます、胎児のようにまあるくなって、そのまあるさを、まろやかさを、調和の美しい音色として自分の中にも周囲にも、広げていきたい。

そう、心から願われるのです。

あなたに、心からの胸いっぱいの愛を放ちつつ。

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