お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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古鏡
                  澤谷 鑛

 道元禅師の『正法眼蔵』の「古鏡(こきょう)の巻」に載っている禅問答に、南嶽(なんがく)と馬祖(ばそ)の有名な話があります。

 坐禅を十年余りも修行した馬祖の草庵に師の南嶽がやってきた。
「近ごろ何をしておるか?」
「坐禅をしております」
「何のために坐禅をするのか?」
「仏になるためです」

 馬祖の答えを聞くと、南嶽は一片の瓦を拾って石の上で磨きはじめた。

 馬祖は、それを見て聞いた。
「何をしておられるのですか?」
「瓦を磨いておる」
「瓦を磨いて、どうされますか?」
「鏡にするのだ」
「瓦を磨いて、どうして鏡になりますか?」
「それなら、凡夫が坐禅して、どうして仏になることが出来るのか」

 瓦はいくら磨いても鏡にはならない。あたりまえのことです。
 瓦を凡夫に置き換え、鏡を仏に置き換えると、凡夫はいくら坐禅しても仏にならない、となる。これもその通りです。
 逆に言えば、仏だからこそ坐禅をすれば仏になる、と言えます。

 道元が比叡山を下りたのは、十五歳の時でした。比叡山にいたのは、わずかに二年でした。ちなみに、法然が三十年、親鸞が二十年、日蓮が十二年、比叡山にはいました。

 道元が、あまりにも短い間しか比叡山にいなかったのは、抱いた疑問に誰も答えてくれなかったからだ、と言われています。
 仏教で教えるとおり、人に「仏性」があるというのなら、磨いても磨かなくても、修行してもしなくても、その「仏性」の値打ちは変わりません。であるならば、磨くという行為は本当に必要なのか? これが若き日の道元の疑問でした。

「仏性」が、磨く時も磨かぬ時も、磨く前も磨いた後も、同じく「仏性」であるのなら、修行とは何か? ということになります。
修行とは何か? それは鏡を磨いて鏡を現し出すことであり、とりもなおさず仏を磨いて仏とするということです。

何かを目指しての修行ではなく、ただそのまま修行するのです。
それが実は、瓦を磨いて鏡とする、ということですが、本当はすべてが鏡そのものであり、瓦などない、ということが解らねば、瓦を磨いて鏡とするということも、それが実は、鏡を磨いて鏡とすることなのだ、とは解らないことになります。

瓦は瓦ではなく鏡なのです。人間は瓦ではなく鏡なのです。

禅のお寺で友人がこんな質問をした、といいます。
「鏡、鏡といいますが、坐禅をすると鏡の世界がみえてくるのでしょうか? 目を瞑りますと真っ暗闇になります。これが瓦の世界なのでしょうか? 鏡の世界って、どんな世界なのですか? どうしたら鏡の世界がみえてくるのですか?」

 和尚は、こういった、といいます。
「それはな、鏡や瓦について、あれこれ思いをめぐらすことではなく、坐禅をやりつづけることじゃよ」

 人間は「仏性」があるのに、なぜ修行せねばならないのか? という道元の疑問の答えは、「修行を離れて仏性はない」というところに結論づけられています。
それは、行によって冷暖自知するだけでなく、学によって明快に解説されなければならない、ということなのでしょう。

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