お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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02/07
父の思い出とデトックス(前編)
            つねさん(養成講座3期生)

僕が4歳のときに父と母が離婚し、母と二人で暮らすようになったのですが、4歳の頃の自分を思い出すとき、2つの情景を思い浮かべます。
一つが“父と母の夫婦喧嘩”、そしてもうひとつが“母に連れられて通った家庭裁判所の風景”です。

母から聞いた離婚の理由は、父の病気が原因だったということでした。父は、戦争時代、空軍の偵察隊に属し、周りの友人たちが特攻隊としてどんどん空に散っていくのを見て心の病に罹かり、終戦後は、家に戻ってきてから、普通の仕事は出来なくなったようです。

父と母は、お見合いで結婚したのですが、とても気が強くてしっかり者の母と、仕事には行かずに家で居ることが多かった父とは、始終、喧嘩をしていました。二人は喧嘩ばかりしていたという記憶しかありません。そして、僕が4歳のときに、遂に、離婚することになったのです。

一つ目が、今でもはっきりと覚えている“夫婦喧嘩の光景”はと言いますと・・・
当時、大阪の瓢箪山の文化住宅に3人で住んでいたのですが、いつものようにずっと家に居た父は虫の居所が悪いのか、機嫌が悪くて、原因は何であったのかは覚えていないのですが、父の言葉に口答えした母に対して、父が手を上げたのですね。その日は、母も機嫌が悪かったのか・・・そのまま家を飛び出していってしまいました。
僕は、怒り出した父が怖くて母を追いかけようとしたのですが、父は僕を外に出さないようにするために、玄関の扉を閉め、鍵を掛けてしまいました。それで、僕は恐くなって、大声で泣き出したのです。
その声が外に居る母にも聞こえたのでしょうね。玄関の横に窓があったのですが、その窓には鍵が掛かっておらず、母が外からその窓を開けて、僕を呼んだのです。“早く、出てきなさい”って!
僕は、小さな身体を丸めて、その窓から外に出ようとしたのですが、父が中から引っ張って、僕を出さないようにするのです・・・
でも、母は母で、外から僕を引っ張り出そうとする・・・
内と外との両方から引っ張られて、とても怖かったという思いが強く残っています。
そして、最後は、僕の気持ちが母の方にあったからなのでしょう。僕自身は、外に出ようと頑張りましたので、母に引っ張り出されて、抱えられて、外に脱出し、そのまま二人で靴も履かず、裸足のままで、遠くまで走っていきました。・・・
その後は、何故かまったく覚えておらず、記憶はそこで完全に途切れてしまっています・・・

その文化住宅には、1年半ほど、3人で住んでいましたが、その家の思い出は、この“夫婦喧嘩の風景”と、父が家の玄関で撮ってくれた“母と僕の二人の笑った写真”の2つです。なぜか、父の写真は、ほとんど残っては居ません。母が捨てたのかもしれません。
“怖かった思い出”と、“楽しい思い出”と、まったく逆の二つだけを覚えているのは、今の僕の潜在意識の奥深くに、何かしらデトックスすべきものが残っているからではないか?・・・そんな気がしてならないのです・・・

そして、もうひとつが、“母に連れられて通った家庭裁判所の風景”です。
今でも脳裏にはっきりと刻み込まれているのは、なだらかなカーブの掛かった坂道のある家庭裁判所の入口と、歩くたびにギシギシと音が出る木の廊下、そして古い木枠の窓が嵌め込まれた小さな部屋の風景です。
その部屋の中で、女性の相談員と母が相談しているのですが、その内容はまったく耳には届いては来ませんでした。
次には、父と男性の相談員、母と女性の相談員が、2対2で四角のテーブルで向き合って相談している風景も覚えていますが、こちらも声はまったく届いては来ていません。
何度、通ったでしょうか? 多分、2~3回くらいでしょうか?
待合室の椅子に座って、子供の雑誌を見ながら、とても退屈だったことをおぼろげながらに覚えています。子供心ながらにも、何か嫌なことを大人たちが相談していて、何か悪いことが起こってしまうのではないかと言う不安・・・
淋しさとも、悲しさとも言えぬ、複雑な気持ちだったことを、今でも覚えています。

そして、正式な離婚後、建設会社、所謂、“飯場(ハンバ)”というのでしょうか?
気の荒い建設現場の兄ちゃんやおっちゃんたちの食事の用意をする“住み込みの仕事”から、二人だけでの暮らしが始まりました。
僕が2年保育の幼稚園に入園したての頃、しかし、その住み込みの暮らしは約1年半で終了しました。

母は、このままの環境では、“僕の教育には良くないだろう”と判断し、簿記の学校に通い始めて、見事半年で簿記3級に合格、僕が幼稚園の年長の時に、この建設会社を飛び出して、大阪市の黒門市場の近くの二間のアパートに引っ越して、経理社員としてタクシー会社に就職しました。このアパートは、共同炊事場で、共同便所、繁華街に近いことから、水商売関係の人も多く、いつも一人ぼっちだった僕の面倒を、同じアパートに住むお姉さんやちょっと強面のお兄さんが、良く、可愛がってくれました。
このころの母の月給が2万円、アパートの家賃が8000円で、生活はとても苦しくて、給料の前借は当たり前、日夜、質屋通いで、家の着物がどんどん無くなっていくのを、子供心ながらに哀しい気持ちで眺めていたのを鮮明に覚えています。
小学校に入る前から、“鍵っ子”になり、小学校から家に帰っても誰も居なくて淋しいので、いつも友達の家で遅くまで遊んでいました。友達の家で晩御飯をご馳走になったことも、多々、ありました。そういう経験からなのか、“人当たりの良い、周りへの気配りの効く、こまっしゃくれた子供”になっていました。ある意味、それが、生きていく上での術(すべ)だったように思います。

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コメント

人生はつながっているのかもしれませんね。
文章を読んでいますと、人にはそれぞれの人生があるのだな〜と感じました。
つい、自分が過ごしてきた人生をスタンダードだと考えてしまいます。

でも、つねさんの過ごされた人生を少し垣間見せていただいただけでも、
決してそうではないと感じました。生い立ちが違えば、考え方も価値観も違う。
そのようなことを、改めて感じました。

また、自分が置かれた環境によって、自分が形成されることも感じました。
それは、悪い意味ではなくて、逆にいい意味で受けとりました。

つねさんは生きていく上での術と書かれていましたが、そのお蔭で、
つねさんは、人当たりがよく気配できる人になられているのですから。
そう感じました。


つねさん
後編が楽しみです。
ありがとうございます。
よし [URL] 2016/02/07(日) 11:37 [編集]

人はみんな違う
よしさんへ

人は生まれながらにして違いますし、成長していく環境も違いますので、おのずと価値観も違ってきます。

その違う価値観を認めることが難しいので、人間関係で悩むことが良くあるのですが、よしさんのように…僕のことを認めていただけると、救われたような気持になることができます。

こちらこそ、素敵なコメント、ありがとうございました。
つねさん(半世紀) [URL] 2016/02/08(月) 19:29 [編集]

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