お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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02/16
見の目・観の目・心眼
                 中崎佳奈子

先日、澤谷先生がフェイスブックに上げられていた記事「龍を考える」の文章を読んでみた。
初めは、どうして人はここまで物事をややこしく考え、複雑に捉え、難しい理論を構築したがるのだろうか? ワザとなのか? なんらかの差別化を図って気づく事へ敷居を高くし、気づく事すら出来ない様にしているのか? と思ったりもした。
人はそれぞれの時代、気候、地域、文明、文化などの環境により異なるコミュニティにあっても、人が「本質に辿り着きたい(悟り、覚醒)」という欲があるという事。それ故、覚者を求め、その道を目指し、本質を極めようとする事を止めない。

この話題の中で三つの眼で考えてみるという「見の目」「観の目」「心眼(隻眼)」の話が出ていた。人は実際に肉眼で目の前に在るものをあるままに見る事が出来ない(認識出来ない)という話を聞いた事がある。
「見の目」は肉眼、「観の目」は心の目とここで表現されているが、その心の有り様で如何様にも見える(認識する)ということ、「心眼(隻眼)」とは、これら見ているものが本質であるかを理解し見極める、見切る力のこと。
これら三つの目の違いをはっきり理解する一方で、日々の生活、人との関わりの中で自身が本質を見極める感覚に触れる事が出来るような感性を磨き「心眼」を持ちたいと切に思う。
こちらであげられていた『碧巌録(へきがんろく)』にある「山を隔てて煙を見て、早く是れ火なることを知り、牆(かき・垣根や壁)を隔てて角を見て、便ち是れ牛なることを知る。」という垂示でいわれているように、その煙が何の煙なのか? またその煙が上がる原因は何なのか? その角は何の角なのか? そこにはその角を持っているものがどの様な状態で在るのかを見極めることの出来る明敏さがなければ本質を悟る心は持つ事が出来ないということだろう。
玉石混交であるこの世の中を見ている自分の「見の目」「観の目」を通して本質を見極めることの出来る感性は、一体どうすれば身に付けることが出来るのかを常に意識し続けたい。

P.S.
今回この記事を書いていて気づいた事として、幼い頃から周囲の大人より鋭敏過ぎると言われる自分の感受性から発生する「なんとなく」も含んだ感覚を、潜在意識より顕在意識下に汲み上げ言語化することを「生きるため」に否定し続けた結果、気持ちを言葉に置き換える比喩的表現が極端に苦手意識としてある事を認識出来た。
今までは自分の意識を言語化しないように表現を構築してきたが、感覚の意識化とそれを表現する言語化が分離していることに今の今まで自分で気持ちが悪かったという事だ。
これからの自分の課題が言語化出来たので、今後の目標もはっきりとした。
このような機会を頂いた澤谷先生に感謝致します。ありがとうございました。

澤谷 鑛 のカウンセリングは、コチラ…
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コメント

心眼
心眼というのは、心の眼でみているものが本質かどうかを見極める眼なのですね。

本質というのは。

批判しない。
相手を変えたり説得しようとしない。
見の目でみているものの奥をみる。
人、事、物の神性仏性をみる。

ということだと思います。

無視する、或いは、コメントを削除すること。
それは本質から出た言葉でないものは。
それに反応しない。関わらない。
そういう場で本質とは何かを学んでます。

自分が本質を求道していくことと。
人にそれをわかるように伝える伝道は。
おのずと言葉が変わってくるということ。

自分がわかることと。
人にわかるように話すことは別だなと。
苦心する経験をしてます。

すみません。とりとめもなく。
ありがとうございます。


[URL] 2016/02/16(火) 00:50 [編集]

追記
『碧巌録(へきがんろく)』のお話、久しぶりに拝読しました。ありがとうございます。

記事の一部の言葉に引っ掛かって反応する。
澤谷先生の対応や言葉に引っ掛かって反応する。

私は散々、それをやってきた者ですが。
それは。煙だけをみている。
或いは、角だけをみて判断していたのかなと思います。

そうではなく。

何かを伝える。何かというより。
見えない本質を伝える観の目、心眼を養うために。

その記事が掲載されている。
澤谷先生の対応や言葉がある。

澤谷先生においてはもちろん。
求道の言葉と伝道の言葉は違うので。

わざと引っ掛かる対応や言葉で。
伝えるべき本質を伝えようとされることがある。

見えない本質。不完全の奥に控える完全。
5年前から数年、さっぱりわからなかった碧巌録に。
そういうことを思ういまに感謝致します。

ありがとうございます。





[URL] 2016/02/16(火) 01:23 [編集]

追記2
澤谷先生が説明されないことで。
それをどうにか説明したい人が育つ。

先の記事の絆ではないですが。
絆は面白いと感じます。

ありがとうございます。
[URL] 2016/02/16(火) 01:47 [編集]

本質に戻る旅
自分の気持ちを言葉に置き換えることに
苦手意識を持った人の文章とはとても思えません。

中崎佳奈子さんが仰っていましたが
自分の中にすでにあるのはわかっていたけれども
生きるために否定されていただけなのですね。

これからどんな気持ちを
言葉にされていくのでしょうか。

さなぎから蝶になり
大空を飛んでいく姿が想像されます。


中崎佳奈子さん
本質になりきる決意表明を
ありがとうございます
よし [URL] 2016/02/16(火) 10:54 [編集]

阿弥陀と禅
私は生まれた時から「己一人の無力さを知り、阿弥陀に御縋りして無量寿無量光につながる」という環境と空気感の中を生きてきた。

あらゆる衆生を漏らさず救う仏。
「摂取して捨てざれば阿弥陀と名づけたてまつる」と親鸞聖人は言われました。

そういう他力本願を心頭に念じてきた私にとって、
自分の中の仏を観じる…という禅の心は、未開にして未踏の世界といって過言でありません。
ひたすらに自分と向き合う事に、論理的解釈をされていくところも、今はまだまだ肌に馴染まないのが正直なところです。

慈顔に護られる仏の懐に心も体も預け、庵に和らぐ感じに安堵するのは、
私の生来の気の弱さもあるのでしょうか。

禅を説法される澤谷さんが、一方で「絆」を推していらっしゃるのも奇妙にさえ思う私ですが、少し興味心もあります。
ただ、禅は、庶民には難解で誤解も招きやすいですから、足を踏み入れるには毅然とする志を立てる気概が求められますね。

天成 光 [URL] 2016/02/16(火) 19:24 [編集]

コメントをありがとうございます。
自分の拙い文章と禅の話に関わる内容で一層読みにくい感想になってしまったのではないのかな…と不安でした。感想1つ書き記すことでこんなにも気力、体力ともに消耗したのはかなり久しぶりのことでした。
皆様のコメントを1つ1つ拝読させて頂き、また更に色々な角度からの「見の目」「観の目」かある事を知ることが出来ました。
貴重なコメントをありがとうございました。
中崎佳奈子 [URL] 2016/02/16(火) 21:38 [編集]

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