お伝えしたいことは「運命は改善できる」ということです。
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06/26
龍を考える Ⅴ
       澤谷 鑛

 文殊〈もんじゅ〉菩薩と無著〈むぢゃく〉禅師とは、互いに時代がことなるから、このように現実に相見えることはないはずです。
 無著禅師が初めて文殊のお寺に行ったとき、道が遠く行き着くまでに日が暮れました。近くに古いお寺があり、一夜泊めてもらいました。その寺の老いた和尚は、仏教の造詣が深く、ほとんど徹夜で、無著は教えられることが多かったといいます。
 翌朝、無著禅師が出かけようとすると、その寺の和尚は、一人の童子を見送らせました。門外に出たとき、無著禅師は童子に聴きました。
「このお寺はなんといお寺ですか? そして和尚はなんという高僧ですか?」
 童子は、紋の左右に立っている仁王を指して、
「仁王の後ろを見なさい」
 といいます。なにがあるのかと無著が目を凝らした瞬間、すべての姿が消え、そこは広い雑草のおおい茂る野原であったといいます。その古いお寺の和尚は、文殊菩薩であって、神通力によって無著禅師をねぎらったのだ、とわかったというのです。
 前回の文殊と無著の対話のあとに、ある書には、夢の中でのこの問答の続きが載っています。

 門外に出たとき、無著は童子に尋ねます。
「和尚は前三三後三三といわれましたが、それはどれほどの数をいわれたのでしょうか?」
 童子は無著禅師に、
「大徳!」
 と大きな声で叫びました。無著禅師は、自分を尊敬して「大徳!」と呼びかけたのだと受け取り、「はい」と応じました。童子は、
「大徳の大というのはどれほどの大きさだと思いますか?」
 と問います。無著は自分の徳の大きさを観ようとしたとき、童子もお寺も消えて、目が覚めたのでした。
 徳の大小、セミナー聴聞者の多少の問題ではない、何がほんもので何がにせものなのか、何が真実で何が夢の中のものなのか、それらを見分ける眼を持つことが大切である。と同時に、しあわせな人生の実現をサポートするため、縁ある人を出来る限り結集するというのは、ほんとうの大徳なのでしょう。

 そこで、三つの眼で考えてみることにします。
 ひとつは「見の目」とも呼ばれる肉眼です。
 もうひとつは「観の目」と呼ばれる心の眼です。心は、心ころころと絶え間なく変わるので心だと笑いながら言った人がいましたが、徹底して澄むこともできるし、濁ることもできるのが、この眼です。澄んだ心で自分と対面すれば、道元のいう仏向上の存在に出会うと言うことになるのでしょう。その心は、澄んで仏向上心と呼ばれるものなのでしょう。
 三つ目の「眼」は、【垂示】に「頂門上に眼あり」と書かれていますが、両眼の他に額にもうひとつの眼があるというのです。現実世界に起こる前の心の世界の兆しを観るというものです。
「観の目」のどれほど澄んだものなのか? はたまたどれほど濁ったものなのか? 見極める眼をいいます。心眼とか隻眼という言葉があります。
「心眼」とは、辞書によると、
「心の目によって目に見えない真実を見抜く力のことである。武術においては重要視される。漫画や小説などのフィクションやオカルトでは超能力の一種であるかのように扱われている。具体的には目や耳などの感覚器で知覚することが出来ない情報を経験と想像力で推論することによって見えない物の具体的な形質や挙動を把握すること、また科学的な推論に基づいて見えない物の本質を理解する能力のことである。武術においては相手の挙動を予測して行動することで相手を制することを心眼で見切ったなどと表現している。」
 とあります。
「見の目」でみると想像上の動物である龍など見えるはずがありません。しかし、「観の目」でみると龍にも蛇にも、蛇も大小・無毒有毒もみえてきます。今、という時空間において、龍なのか蛇なのか? 聖なのか俗なのか? を見極める眼をいいます。

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コメント

澤谷先生、おはようございます(*^^*)❤
自分を客観視している眼の位置を定めることが出来ました🎵
なるほどぉ~この位置で、3つの眼で、自分を見つめてる、向き合ってる実感を深めることが出来ました。
ありがとうございます✨
Yukari Ueno [URL] 2016/06/26(日) 08:54 [編集]

心眼のことを一隻眼ともいいます。隻手音声もそこから発します。
井上暉堂 [URL] 2016/06/26(日) 08:56 [編集]

澤谷先生、おはようございます。またまた、ありがとうございます!

朝の座禅の後、先生の投稿を拝見して、「頂門の上に眼あり」とはどんなだろうと自分で実験してみたのですが、仏の三十二相のうちの頭のテッペンの頂門のその上に目があるみたいにすると、顔についている眼とは異なるように見えるというか感じます。

顔の眼は自分自身が見えませんが、頭のてっぺんの上にある眼からは自分自身も含んで見えます。なんと表現してよいか的確な言葉が見つかりませんが、顔についている眼より、頭のテッペンの上の眼だと、自我が消えるとまではいきませんが薄まるような感じがします。

また、顔の眼は前しか見えませんが、頭のテッペンの上の眼は360度回転可能で見渡すこともできる感覚があります。

そして、顔についている眼だけでなく頭のテッペンの上にも眼があるように暮らしていくと、顔についている眼だけで暮らすより前頭葉の部分の動きが活発で、仏像の眉間にほくろのようにみえて仏の三十二相の右巻きの白毛があるという「白毫(びゃくごう)」の部分に変化がでてくるかもしれないような気がします。

仏は、ここから光明を放つということですが、頭のテッペンの上で観ていくことで智慧の境地に至るのでしょうか。
森 信仁 [URL] 2016/06/26(日) 08:58 [編集]

井上先生、横レス失礼します。
「隻手音声」、ちんぷんかんぷんできておりましたが、澤谷先生のご投稿、そして井上先生のコメントの縁をいたたぎ、音が観えました。ありがとうございます!
森 信仁 [URL] 2016/06/26(日) 16:07 [編集]

難しすぎるけれど、凄い世界です。
Naoko [URL] 2016/06/26(日) 17:37 [編集]

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